「原因」と「理由」

アリス・アンブローズ編『ウィトゲンシュタインの講義 ケンブリッジ 1932-1935年』第一部「哲学 一九三二―三三年」*1野矢茂樹訳)からメモ。第4節。
「理由(reason)」と「原因(cause)」。


(前略)両者はものごとに対する二つの異なった秩序にほかならない。そこでまず、理由と原因が区別されうる前に、あることが理由であるための規準を決定する必要がある。推論とは実際に行われる計算であり、理由とはその計算において一つ前の段へと遡ることにほかならない。理由は、ただそのゲームの内部にあってのみ理由となる。理由を与えるということは、一連の計算過程を辿ることであり、理由を求めることは、いかにしてその結果に到達したかを問うことなのである。理由の連鎖には終わりがある。すなわち、ある理由に対してさらにその理由がつねに与えられうるわけではない。なぜ君は怯えているのか、と問われて与える答は、もし原因が与えられるならば仮説を含んだものとなる。他方、計算にはいかなる仮説的要素もない。(p.53)
「「理由」と「原因」という語の文法」;

(前略)われわれは、いかなる場合に、あることを行なった理由を与えると言い、いかなる場合に原因を与えると言うのか。「なぜあなたは腕を動かしたのか」という問に対して、行動主義的説明を与えることによって答えるのであれば、その人は原因を挙げていることになる。原因は実験によって発見されるかもしれないが、実験は理由を与えるものではない。「理由」という語は実験との関連では用いられていないのである。理由が実験によって見出されると言うことは無意味でしかない。「数学的議論か経験的証拠か」という選択肢は、「理由か原因か」に対応している。(p.54)