不可能なこと

アリス・アンブローズ編『ウィトゲンシュタインの講義 ケンブリッジ 1932-1935年』(野矢茂樹訳)を読んでいたら、ヴィトゲンシュタインは「数学において新しい方法を見出すことは、そのゲームを変化させることである」ということを展開して、


ある人が角の三等分を為したと思いこみ、それを示すために円周上にいくつかの点を区切ったとしよう。だが、われわれはそれに満足しないだろう。そしてこのことは、彼がわれわれの三等分の観念をもっていなかったということを意味する。彼が思いこんでいるものは三等分ではないということを彼に受け入れさせるには、われわれは彼に何か新しいことを受け入れさせねばならない。かりにわれわれが角の二等分の操作しか許していないような幾何学をもっていたとしよう。この幾何学での角の三等分の不可能性は、まさにユークリッド幾何学における角の三等分の不可能性に似ている。だが、この幾何学は不完全なユークリッド幾何学なのではない。[まったく新しい幾何学なのである。]*1(第一部「哲学 一九三二―三三年」、pp.61-62)
と述べている。
「数学において新しい方法を見出すことは、そのゲームを変化させることである」の前に、「角の三等分が直線定規とコンパスによってでは不可能であることが証明されると、角の三等分に関する新たな観念が与えられる」とある(p.61)。
この「三等分」というのが古代希臘の幾何学における「難問」であったということは知らず、ヴィトゲンシュタインが例示として使っている意味を計りかねていた。偶々、中国文学者の大野圭介氏*2の「「角の三等分屋」への対処法に学ぶ」というblogエントリーを読んだ*3。曰く、

幾何学における「ギリシャの三大難問」はご存じの方も多いと思う。定規とコンパスのみを使って、次のような作図を行えというものである。


与えられた立方体の2倍の体積の立方体を作図せよ。
与えられた任意の角を三等分せよ。
与えられた円と同じ面積の正方形を作図せよ。


なお定規は直線を引くためだけに用いるもので、目盛りを使ったり、三角定規で角を使ったりしてはならないし、コンパスも円や円弧を描くためだけに用い、作図は有限回数の操作で行わなければならないという条件がつく。

 問題の意図は誰にもわかりやすいが、では実際に作図するにはどうすればよいのか。この問題は2000年以上にわたって数学者を悩まし続けたが、解析幾何学微積分学の進歩に伴って、代数的な方法によってすべて「不可能」であることが証明された。

また、

ところがわかりやすい問題であるだけに、「不可能」が証明されてからもなおこの問題に挑戦し、それができたと思いこむアマチュア数学者が後を絶たず、プロの数学者にとっては厄介な存在であるという。

 特に角の三等分が「できた」と思いこむ自称「数学者」は「三等分屋」あるいは「三等分家」と呼ばれている。彼らが自分一人で悦に入っているだけならまだいいのだが、それを世間に発表しようと、数学者や数学雑誌の編集者のところに論文を送りつけてきたり、実際に乗り込んできたりするのである。

私なんか、「証明」以前に分度器がなくちゃ駄目だよと直ぐに投げ出してしまったのだけど、かなり奥深い問題なのね。ヴィトゲンシュタインの「ある人が角の三等分を為したと思いこみ、それを示すために円周上にいくつかの点を区切ったとしよう」という仮定は「三等分屋」さんたちの存在を前提にしているわけだ。