- 作者: 清水真木
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2014/06/04
- メディア: 単行本
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清水真木『感情とは何か』から。
清水氏によると、日本語の「やばい」と似た言葉には(例えば)独逸語のtollがあるという(pp.10-11)。或いは漢語の窅害?
私は、若者言葉としての「やばい」を使うべきではないと考えています。少なくとも、自分自身の言葉としてこれを使ったことはありません。というのも、「やばい」を使うことにより、感情の質がいちじるしく傷つけられ損なわれるように思われるからです。
「やばい」は、大変に便利な言葉です。注意を向けるに値するような性質を備えた事柄はすべて、「やばい」と表現することが可能だからであり、「やばい」の使い方さえ身につければ何についても、適切な言葉の選択に頭を悩ませるつらい作業をすべて免れることができるからです。
とはいえ、一つひとつの事柄には、ユニックな性質があり、このような性質を受け止めるときに私たちの心に現れる気持の一つひとつにもまた、他に替えることのできない個性が認められねばなりません。日本語の豊かな語彙は、このような個性の差異を正確に表現する努力の中で、ながい年月をかけて形作られてきたものです。
「やばい」の一語を使えば、事柄の性質や自分の気持に適合する言い回しを工夫する面倒な作業を省略することが可能になります。しかし、たとえば、一〇〇種類の表現を「やばい」によって置き換えることが許されるようになるとき、生き残るのは「やばい」であり、一〇〇種類の表現の方は、死語となることを避けられません。一〇〇種類の表現の使い方を記憶し、使い方をたえず工夫することは、脳に大きな負担を強いるからです。「やばい」という万能の代用品をただ一つ憶えている方がよほどラクであることは間違いないでしょう。
ただ、「やばい」が使われるかぎり、私たちの言語使用能力がその分だけ損なわれることは確かです。「やばい」に慣れた者にとり、この言葉の使用をあえてみずからに禁じ、これを場面に応じて適切に言い換える作業は、途方もなくつらい作業になります。これは、滅多に使われることなく痩せ衰えた筋肉を無理やり動かす労苦に似たものとなるに違いありません。
「やばい」の問題は、言語使用の能力にとどまるものではありません。一〇〇種類の表現を捨て「やばい」の一語を使うことは、一〇〇種類の表現が区別していた一〇〇種類の事柄を味わい分ける力を捨てることと同じだからです。「やばい」を無差別に連発するうちに、事柄を把握する枠組は大雑把になり、感情は粗雑になります。デイトレードで予想外に大儲けするのも、隣家が火事になるのも、街頭ですれ違ったばかりの女性が美しいのも、グーテンベルクの「四十二行聖書」が一〇円で売りに出ているのも、硬い煎餅を噛んで歯が欠けるのも、すべて「やばい」点で同じことになってしまいます。(後略)(pp.11-13)
ここでいう意味での「やばい」は、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060207/1139318386 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060605/1149536524 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070612/1181625292 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090716/1247763189 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100219/1266520878 で使用/言及していた。