「中世日本の経済にとって最大の事件」

贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ (中公新書)

贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ (中公新書)

桜井英治『贈与の歴史学*1から。
桜井氏が「中世日本の経済にとって最大の事件」(p.110)と呼んでいる出来事を巡って。


一三世紀後半、中世日本の経済構造に大きな変化をもたらすひとつの出来事がおこった。それまで米で納められていた年貢が、このころをさかいにして銭で納める形態に変化したのである。これを年貢の代銭納制というが、それが一三世紀後半、とくに一二七〇年前後から急速に普及していった。じつは絹や麻布など、繊維製品で納められていた年貢の代銭納化は、これよりもやや早く一二二〇年代にはじまっていたが、米年貢も半世紀ほど遅れてようやく代銭納化し、これによって年貢の大半が現物ではなく、銭で納められる体制が定着したのである(松延康隆「銭と貨幣の観念」*2)。(pp.109-110)

ところで年貢の代銭納化はなぜ一三世紀後半、とくに一二七〇年代におきたのだろうか。従来は〈労働地代→生産物地代→貨幣地代〉という西欧でつくられた発展段階論にもとづいて、国内経済が一定の発達をとげた結果、このころからようやく日本社会が本格的な貨幣経済時代を迎えたのだというような説明がなされてきたわけだが、一九九〇年代に入って、この説明がまったくの見当違いであることが分かってきた。日本でこの時期に年貢の代銭納制が普及した背景には、じつは宋から元への交替という中国国内情勢が深くかかわっていたことが大田由紀夫によって明らかにされたのである(「一二-一五世紀初頭東アジアにおける銅銭の流布」*3)。
日本の中世国家は、朝廷にせよ、幕府にせよ、貨幣をみずから鋳造することはなく、周知のように、その供給をほとんど中国の銅銭に依存していた。そしてそれをささえたのが、中国歴代王朝のなかでもとくに大量の銅銭を鋳造したことで知られる北宋の貨幣政策だった。ところが一二七六年に元=モンゴルが事実上南宋を滅ぼして中国を統一すると、翌年、元は紙幣専用政策をとり、紙幣の流通を円滑にするために銅銭の使用を禁止した。その結果、中国国内で使い道を失った銅銭が海外に大量流出し、それが日本においては年貢の代銭納制を一気に普及させる結果をもたらしたというのが大田の見解である。
中国からの銅銭流出は、実際にはもう少し早い時期にはじまっていた徴証があるが、いずれにしても宋・元交替にともなう中国国内の混乱が年貢の代銭納化の主要因であることはほぼ動かないところだろう。その証拠に一三世紀後半には日本だけでなく、ヴェトナム、ジャワなど東アジア全域で中国銭使用の拡大という共通の現象がおきている。東アジア全域でおきたことを、国内経済の発達といった一国史的な理由に帰するわけにはいかない。これは、外的要因を無視し、すべてを内的な発展で説明してきたマルクス主義歴史学に典型的な理論的破綻例といえよう*4。(pp.113-115)

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/archive/2019/01/20

*2:『列島の文化史』6、1989

*3:『社会経済史学』61-2、1994

*4:ほかの例は?