ダーウィンがいなかった時代

島泰三ダーウィンのいる哲学史」『本』(講談社)533、pp.16-17、2020


チャールズ・ダーウィン*1の重要性というのは生物学においても思想一般においても自明なものではなかった。


(前略)ダーウィンによって「進化論」自体は一九世紀中盤に定着したが、そこで受容された進化論は「非ダーウィン的進化論」であり、ダーウィンが進化のメカニズムとして提起した「自然選択説自然淘汰説)」は、二〇世紀半ばに「進化の総合説」として復活するまで、「葬り去られた理論」と見られ、多数派から顧みられなかった(実際には彼らの方が古い思考に囚われていた)。その後の浸透の度合いも分野や地域で差があり、特に非英語圏での浸透は遅かった。たとえば日本の生態学では、一九八〇年代までダーウィン主義への「鎖国」のような状況にあったとされる。
他に、経済格差、差別的政策、植民地支配などを「競争による進歩こそ自然の摂理だ」のような漠然とした理屈で正当化する、総称して「社会ダーウィン主義」と呼ばれる粗雑な思想が一九世紀後半から流行し、本来のダーウィン主義の評判を落としていた、という事情もある。ナチス・ドイツの残忍な人種差別政策の背景にも、これらを含む「生物学主義」があり、それゆえ第二次大戦後、人間(特に人種)の生物学的研究はタブー視され、代わりに「文化主義」を基盤にした人間研究が興隆し、マイノリティの解放やヨーロッパ中心主義の見直しなどととも連動して発展した。つまり人文・社会科学には、ダーウィンの名を積極的に遠ざけてきたところがあった。(p.16)

(前略)一九九〇年代には、哲学を含む人文・社会科学へのダーウィン主義の浸透が本格的に進んだ。この流れを自覚的に引き受けた典型的な書物が、哲学者ダニエル・デネット*2が一九九五年に著した『ダーウィンの危険な思想』である。デネットはそこで、西洋思想史全体の中で、ダーウィン自然選択説がいかに革命的なものであったかを力強く訴えた。デネットによれば自然選択説は「万能酸」、つまり何でも溶かし、どんな容器にも封じ込められない物質のように、生物学の一角に生み出されるや周囲に浸透し、あらゆる領域を侵犯していくのだ。(p.17)

僕なりに捉え直せば、自然選択説は「目的論的自然観の解体」という思想潮流の重要な一歩として位置づけられる。中世のアリストテレス自然学においては、自然は「目的があって当たり前」だった。これを「目的論的自然観」という。近代科学の成立とともに、自然を構成する粒子が目的とは無関係の機械的法則に従う、という認識が定着したが、この時期以後、自然を「神がデザインした完璧な時計」に見立て、それによって目的論的な現象を説明する思想が人気を得る。その後の自然選択説の登場で、目的論的な原理を自然から最終的に取り除くことが可能になったが、その真価が自覚されるには長い時間を要し、僕らの「常識」をダーウィンの理論から見直す作業は今なお進行中なのである。(ibid.)