「学校のルール」と「世間のルール」

そもそもはhttp://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20070124で知る。マルクスと「児童労働」を巡る争い;


 内田樹http://blog.tatsuru.com/2007/01/20_1145.php
 池田信夫http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/d3f4a39754ac3063c4c92719c0110b30


マルクスの「児童労働」観については池田氏の方が正しいのであろう*1池田氏のいう「公教育は(内田氏の主張するように)子供を保護するためではなく、工場の規律に合わせて労働者を規格化するためにつくられたものだ」というのは、教育史とか教育社会学を少しでも読んだ人にとっては既にお馴染みの事柄に属すると思う。勿論、「するためにつくられた」という目的論的な言い方には問題がある。とにかく効果としてそのような機能を果たしたというくらいか。また、子どもを労働から切り離すという発想がブルジョワジー中産階級)の再生産戦略の転換と関係があるというのも、社会史や家族社会学における既に古いテーマになっていると思う。少なくともアリエス以降ということでは。どなたかが、この子ども観の変容について、ウィリアム・ブレイクの「無垢の歌」を素材に論じていたのを読んだことがあるが、どなただったかは失念した。
ただ、マルクスの読み方云々ということで、内田氏の論じている重要な点が隠蔽されるのではないかと虞れる。それは内田氏が「教育再生会議の第一次報告案」について、「「学校の中」と「学校の外」を同じ基準で律するということ」と要約していることである。曰く、


これまで学校には世間には通用しない「学校だけのルール」があった。
世間は弱肉強食・競争原理のガチンコ・ルールで運営されている(はずである)のに、学校はそうなっていない。
そういうローカル・ルールはなくして、グローバル・スタンダードでいこうじゃないか、ということである。
どこかで聴いたような話である。
そう、これはあのなつかしい「小泉構造改革」「グローバリゼーション」の教育ヴァージョンである。
どうして、学校には学校のルールがあり、それは世間のルールと違っているのか、それには何らかの理由があるのではないか、という疑問は教育再生会議の委員諸君の頭にはどうやら浮かばなかったようである。
どうして公教育制度というものができたのか、それはほんの150年ほど前のことであるが、その理由をみなさんすっかりご失念のようである。
公教育制度ができたのは、弱肉強食・競争原理「世間のルール」から子どもを守るためである。
これは近代社会を作動させているメカニズムに対してどういう態度を取るのかという問題だろう。近代社会においては、何か特権的なセクターが超越的に社会を支えているということはない。経済、政治、教育、科学、アート、家族、宗教etc.といった様々なセクターがそれぞれ独自のロジックで動きつつ、それらの取り敢えずの均衡という仕方で全体社会はある。勿論、近代社会には統一的なロジックを社会全体に貫徹させようという傾向があることも事実だろう。例えば、宗教的原理主義とか。また、経済は野放しにしておけば、他のセクターを侵蝕してしまう傾向がある。しかしながら、他のセクターが完全に経済に侵蝕され尽くして、殖民地化されてしまったわけではない。それは侵略される側の諸セクターの抵抗もさることながら、完全に侵蝕しないことが結果として経済(資本制)の作動に有利だったからだろう*2。だから、問題は様々なセクターが固有のロジックで作動して危うい均衡の下に存立している近代を擁護するのか、透明だとされる統一のロジックで作動する(近代社会の可能性のひとつでありながら)(私たちが見知った)近代社会とは別の社会の可能性に賭けるのかということだろう。
内藤朝雄は内田氏にどう反応するのか。但し、内田氏の場合、〈学校の外〉は資本主義社会であるのに対して、内藤氏の場合は〈市民社会〉ということになるのだろうが。

*1:その動機を訝るものとして、http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200701210001を参照されたし。

*2:マルクス主義フェミニストが示した家父長制と資本制との妥協(結託)とか。