「暦そのものに対する根本的な居心地の悪さ」から

串田純一氏は『古今集』に収められた在原元方の「年のうちに 春はきにけり ひとゝせを 去年とやいはむ 今年とやいはむ」という歌を「暦そのものに対する根本的な居心地の悪さ」を詠んだものだという*1

古今和歌集 (岩波文庫)

古今和歌集 (岩波文庫)

この「居心地の悪さ」を巡って、浜田寿美男「還元としての子供――「私」というものの発生の手前で」(in 『理性と暴力』、pp.161-185)からメモしておく。実は、別の関心から、浜田氏のこの論文をちょっと詳しく再読しようと思っていたのだ。
先ず「人間の両義的存在条件」;

私たちは身体を持つがゆえに、いつもその身体のある〈ここのいま〉を生きている。しかし、同じくその身体が他者から見られるものであるがゆえに、この〈ここのいま〉を越え、これを囲む他者のそこからの目に身を添わせてもいる。そのようにして私たちは、つねにある種の共同性を強要されている。自己中心性が身体に根ざした本源性を持つのと同様に、共同性もまた身体そのものに淵源する本源性を帯びている。
こうして私は〈ここのいま〉にいて、それでいてその〈ここのいま〉にのみいることができず、いつも〈ここのいま〉から一歩はみだして生きている。この両義的な中心−脱中心の力動こそが、人間に与えられた存在条件なのである。(p.164)
そして、

(前略)「いま」を語るとき、そこで私たちはこの〈いま〉を越えて、〈いまではない〉時間の広がりを、何にせよ表象している。でなければ私たちは「いま」とさえ語れない。その時間の広がりが、秒、分、時間、日、月、年を単位とする時計的、カレンダー的な尺度に仮託して語られ、「いま」はそのカレンダーのある日、時計のある瞬間に位置するかのように思いなされる。そこには視点の奇妙な錯綜がある。よく考えてみれば、時計やカレンダーで印づけられる時間は、およそ無視点的である。いつも〈ここのいま〉の視点を免れることのできない私たちの時空世界からすれば、それは一つの虚構でしかない。そのことを私たちは知ってはいるのだが、他方でその時計的時間にある種の実体感が伴っていることも否定できない。(p.165)
この2つの「時間」の錯綜は「私」の起源に関連している。

(前略)人生八十年のその半ばをすでに大きく過ぎた私が、十年前、二十年前、三十年前、四十年前……と記憶をたどっていくと、いま「私」として語り、感じているこの「私」というのものが、どこかの時点から消えてしまう。私自身の場合について言えば、三歳までは切れ切れながら、なんとか「私」の記憶が続いている。そうして行きついたさきに私の最初の記憶というべき一つの場面がある。その場面はまるで写真に写されたような平面的な情景である。しかし、そこに私はまさに視点として存在する。ちょうど一葉の写真の背後に撮影者の視点が潜んでいるように、である。ただ、そうして存在する私よりさらに先に自分の過去を逆上ろうとしても、それはもはやできない。
そうして「私」が記憶の果てで消える。その先に何があったのか、それはよくわからない。ただ、その時点で私の身体まで消え失せてしまうわけではない。私たちはそう思っている。もっとも、消える消えないと言って、そう判断する「私」そのものが存在しないのだから、厳密に言えば、なんとも言えないと言うべきなのだろうが、記憶のなかで私が私である以前にも、何かしら私の前身らしきものがある、そう考えるのが自然的態度のうえでは疑えない一つの信念であるし、「私」の発生を論じようとする発達論の問題意識自体が、この自然的態度のうえではじめてなりたつ。「私」というものは、徹底して〈ここのいま〉から生きる現象であろうところ、この私がいったいどこからやってきたのかと思いはじめたとき、人は結局、「私」の視点を離れた無視点的な時計的時間のうえに身を乗せざるをえなくなる。そこに、「私が私である以前」という一見矛盾した表現がおのずと登場することになる。
(略)遠い昔のどこかで私は私になった。裏返して言えば、その昔、私が私でなかった時があった。時計的な時間に沿うて考えるかぎり、素朴に私たちはそう考えざるをえない。それはもちろん、ある瞬間までまったく私が私でなく、ある瞬間から突然私が私に気づいたというふうなものではなかろう。そのような明確な分岐点などあるわけはない。第一、私が私でなかったころの私を私は知らない。それは論理の問題である。それゆえ正確には、気づいたときすでに私は私だった、と言うべきかもしれない。では、気づく以前のその「私」は何者であったのか。(pp.166-167)
「私は自分のはじまりについて直接知ることができない」ことについてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120224/1330041925 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120225/1330174519も参照のこと。
理性と暴力―現象学と人間科学 (Phaenomenologica)

理性と暴力―現象学と人間科学 (Phaenomenologica)