「結果」と「方法」

鴨澤眞夫*1「学び舎の中学歴史教科書」http://d.hatena.ne.jp/kamosawa/20171230


学び舎の中学歴史教科書『ともに学ぶ人間の歴史』*2の書評。当該書を読んでいないだが、興味深い記述があったので、コピペしておく。


歴史学習は、実は異世界探求です。過去の世界は私たちと直接の繋がりがあるにも関わらず、本質的には違った文脈を生きる異世界なのです。あちらの世界での「普通」はなにか。出来事はどんな文脈に位置づけられるのか、どういうプロセスを経てその決定に至ったか。そういったことは、あちらの世界の人たちの立場に立たなければ実感的には理解できません。

また歴史には、当時は誰にも見えていなかった、後知恵でわかる事実も多いものです。だから、歴史は当時の人の視点だけでも理解できません。本当のことは誰にもわからない、と言っても過言ではないのですが、わかる限り最大限に明らかにしていくには、資料を掘るしかありません。当時書かれた様々なもの、統計、世界の反応、報道などの記録から、実際には何が起きていたかを推測し、裏付け、まとめていきます。これが歴史学で行われている仕事です。

普通の歴史教科書は、このまとめられた「通史」を使い、つまり歴史学の結果を使って、何が起きたかを「説明」しようとします。

この教科書は、歴史学の「方法」を使います。通史も書かれてはいますが、主として何が起きたかを浮き彫りにするための「材料」を提供しています。

実感をともなう、客観を外さない事実を並べ、考えるのは自分だよ、と放り出してくれる。こんな教科書は他の分野にもめったにありません。個々の事実から全体像を再構築するのは科学の得意とするところですが、教科書がそのような視点で編まれていると感じることは少ないものです。

ある時代の人たちの「普通」の事実たち。それらを裏付ける数字。歴史を理解する視点は現代を理解する視点でもあり、過去から未来へ、文明の(理性の)進展を感じる視点でもあります。歴史学者たちのこうした物の見方を得ることこそ、歴史を学ぶ大きな意義なのではないでしょうか。