ルドルフ・ヘス晩年

池内紀「転換の年」(『池内紀の「トーマス・マン日記」を読む』)『scripta』(紀伊國屋書店)20、2011、pp.44-47


1941年5月10日の「ナチス・ドイツ副総統」ルドルフ・ヘス*1スコットランドへのパラシュート降下事件が採り上げられている。
ヘスの晩年について;


(前略)戦後のニュルンベルク国際軍事法廷において、政治的地位の高い者はほどんどが絞首刑に処せられたが、ヘスは「独断で和平のために行動した」ことが評価され、終身刑となり、ベルリンの西隣りの町シュパンダウの旧陸軍刑務所に収容された。ナチス政治犯収容のためだけに存続したもので、元副総統ヘスはここで四十年間をすごした。はじめの十九年間は何人かの「同僚」がいたが、あとの二十一年間はまったくの一人だった。
ニュルンベルク国際軍事法廷の判決であって、法廷はアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の合意のもとにひらかれ、そのため終身刑の服役囚に対しても四ヵ国政府が責任を持つべく定められていた。その結果、歳月が経過するうちに、なんともグロテスクな状況に立ち入った。広大な旧陸軍刑務所を維持するために各国政府は多大の支出を強いられた。恩赦の名のもとに協議してつぎつぎと釈放できたが、ヘスに関してはソ連当局が拒否しつづけた。イギリスに和平を画策し、軍事力をソ連に集中させようとした単独行動が許せないというのだ。一ヵ国でお反対すれば協議は成立しない。
毎朝、四ヵ国の係官が顔を合わせ、警備その他を確認。重苦しい刑務所に四ヵ国の事務官と、四つのちがう軍服の警備兵が二十四時間体制で詰めていた。歳月とともに多少は簡略化されたようだが、原則的には四ヵ国体制をつづけなくてはならない。ただ一人の囚人は七十歳になり、八十歳になり、九十歳になった。
ヘスの日常については元事務官が報告している。寡黙な人物で、たいてい本を読んでいた。回想録にあたるものを書いていたはずだが、公表は禁じられていた。長身だったのが枯木のようになった。刑務所の中庭を散策する以外、独房から一歩も出なかった。一九八七年八月、縊死した。九十三歳だった。四十年の服務ののち、どうして自殺したのか、いっさいわからない。ベルリンの壁が崩れる二年前のことである。(p.47)
ヘスの「回想録にあたるもの」の公開は解禁されたのだろうか。
さて池内氏はヘスの英国行を、ヒトラーの密命を受けて英国との和平を画策するため、としている(p.46)。しかしこれは〈定説〉ではないだろう。次に紹介する記事ではその説は採られていない。ニュルンベルクで死刑を免れたのも、英国に行ってしまったために(結果として)ホロコーストへの加担がなかったということが大きかったのではないか。


The Associated Press “Bones of Hitler deputy exhumed, burned scattered at sea” http://www.ctv.ca/CTVNews/TopStories/20110721/bones-hitler-deputy-rudolf-hess-burned-bavarian-town-wunsiedel-110721


2011年7月20日チェコとの国境に近いヴンジーデルにあるルドルフ・ヘスの墓が撤去され、遺体は火葬の後に海に散骨された。ヘスの墓はネオナチの聖地のひとつと化していた。

*1:池内氏の表記は「ルードルフ・ヘス」。