「水版画」(梅津時比古)

梅津時比古*1「”水版画”の目的」『毎日新聞』2020年12月26日


曰く、


冬の海は、おだやかでも、青ざめている。打ち寄せる波が砂浜に描く模様に見とれた。布を転がすように来る波の先端だけが分かれて砂にさまざまな線を走らせる。水平線が広がる大きな海から、不思議なほど小さな奇麗な模様が生まれる。波が引くと共に一瞬にして線も霧散する。消えてしまう透明な傷が美しい。
所によって色の違う砂の白みを帯びている場所は、やわらかいのであろう。そこでは砂の筋が染みこんで少しずつ溶けてゆく残影が浮かぶ。貝や小石を縫って波の先が分かれるので、棒で砂に少し道を付け、小石を組み合わせて置いてみた。波の先がどこに至るかは、波の大きさによってまちまちで、砂にデザインしたちょうどの場所に波の先が届くことはなかなか無かった。たまにうまく設定した通りに残影が浮かんでも、なぜか奇麗には思えない。意図して作ると、遠くの海から生まれる美が壊れてしまう。

過去、この波や砂浜が創る美を描こうとした芸術家は多かったに違いない。銅版に尖筆で線を描いて黒を入れ白い紙に写し取る銅版画を日本で初めて確立した駒井哲郎も、よく海辺に行っていたらしい。彼の銅版画では一見、何の変哲もない波止場が、銅に刻まれた線の強弱によってどこか感情を帯びてくる。駒井が刻む白地に浮かぶ黒の線を見つめていると、海の色と砂浜の線が浮かんでくる。

フランスはバスクの海近くの岸辺で生まれたラヴェル*2も波に感化された芸術家であろう。彼の《水の戯れ》や《オンディーヌ》に接すると、湖のさまざまな波の模様が見えてくる。一瞬、浮かんでは消える波の透きとおった線を綿密に写し取ったようだ。精緻を極めた中に、見えにくい半音階やさまざまな音があふれ、水の精のオンディーヌの出没を取り巻く波がうごめいている。
ドビュッシーの《版画》にたとえて言えば、ラヴェルのこれらの曲は”水版画”なのではないだろうか。誰もできないに決まっている水面に線を刻むことを、ラヴェルは試みていたのかもしれない。どのように演奏しても、次々に波が来て、究極の演奏はあり得ない。