プロフェッショナルはつらいよ?

内田樹「院内暴力とメディア」http://blog.tatsuru.com/2010/08/04_1026.php


曰く、


数年前にある大学の看護学部で講演をしたことがある。
そのとき、ナースの方たちと話す機会があった。
ナースステーションに「『患者さま』と呼びましょう」という貼り紙があったので、あれは何ですかと訊ねた。
看護学部長が苦笑いして、「厚労省からのお達しです」と教えてくれた。
そして、「患者さま」という呼称を採用してから、院内の様子がずいぶん変わりましたと言った。
何が変わったのですかと訊ねると、「医師や看護師に対して暴言を吐く患者が増えた、院内規則を破って飲酒喫煙無断外出する患者が増えた、入院費を払わないで退院する患者が増えた」と三点指折り数えて教えてくれた。
「患者さま」という呼称は「お客さま」の転用である。
医療も(教育と同じく)商取引モデルに再編されねばならないと、そのころの統治者たちが考えたのである(覚えておいでだろう。「小泉竹中」のあのグローバリズムの時代の話である)。
「患者さま」という表現はキモいとは思っていたが、「厚労省からのお達し」によるものだとは知らなかった。勿論、「院内規則を破って飲酒喫煙無断外出する」不良患者は昔からいたとは思うけど。
このエントリーでは、最後の方で、宇沢弘文氏『社会的共通資本』から「社会的共通資本」を担う者としての「職業的専門家」の話が引かれている。メディア批判の話もあるが、これは「職業的専門家」すなわちプロフェッショナルの危機を論じたものであるといってよい。
社会的共通資本 (岩波新書)

社会的共通資本 (岩波新書)

ブクマ・コメントでは、モンスター・ペアレントを持ち出したものもあった。医師であれ教師であれ、専門職(プロフェッショナル)の権威の維持は、かつてのように学歴が稀少資源であった低学歴社会*1では簡単だったように思う。モンスター・ペアレントの話を最初に聞いたのは1980年代の前半で、勿論その頃はモンスター・ペアレントなんていう言葉は存在しなかった。筑波研究学園都市のようなところでは親が高学歴なので、教師をなめており、教師の権威が成立せず教師たちが困っているとか。低学歴社会では、大学を出た〈先生〉はそれだけでえらかったわけだ。しかし、〈先生〉の権威は何時の間にか片仮名のセンセイになってしまった。問題は大衆学歴社会或いは大衆情報社会において如何にプロフェッショナルの権威を再構成するのかということだろう。ただ、日本においては歴史的・文化的困難がある。現在ではすっかり世俗化してしまったとはいえ、基督教文化圏において、professionとは先ず第一に人間にではなく神に対して責任を持つ職業であった。神の呼びかけ(calling=天職)に対する応答(profess)としてのprofession*2。日本ではそのような基督教文化が広く共有されているとはいえない。また、こうしたprofessionにとって、近代国民国家以前からprofessionとして存在しているということはその権威の源泉のひとつとなっている。しかし、医療と教育について言えば、日本の場合、明治になってそれまでの漢方医を廃業させて近代医療を導入し、寺子屋を廃業させて公教育を制度化したように、前近代からの連続性をちゃらにしてしまったので、国民国家よりも古いという権威付けはできない。そこから、日本におけるプロフェッショナルが自らを正当化する際には、国家権力か市場のどちらか(或いは両方)に擦り寄るという傾向も出てくるのだろう。国営化か民営化かという不毛な対立。国家からも市場からも距離を置いて権威を再構成するにはどうすればいいのか。
内田氏は「インフォームド・コンセント」や「患者の権利」には否定的である。しかし、盥の水と一緒に赤子まで流してはいけないだろう。何よりも、その前提には全体主義への反省があるわけだから。どうすればいいのかというのはわからないのだが、取り敢えず、プロフェッショナルと素人が共有する(筈の)common senseに立ち返り、プロフェッショナルと素人との関係をcommon senseを共有する「博識の市民」*3同士の関係として再構成する中からしか、プロフェッショナルの権威の再生はないのではないかとは思う。というか、common senseの共有の限界において、プロフェッショナルの義務と権威が発生するのではないか(fiduciary[信任]についての岩井克人『会社はこれからどうなるのか』p.80ff.の説明を参照のこと)。
会社はこれからどうなるのか

会社はこれからどうなるのか

ところで、かつての文部省/自民党日教組との〈教師聖職者論〉を巡る論争は、この新自由主義のご時世では、論争の前提それ自体が蒸発してしまったか。