「スポンジケーキ」と「ミルフィーユ」

石戸諭*1「「学歴」という最大の分断 大卒と高卒で違う日本が見えている」https://www.buzzfeed.com/satoruishido/gakureki-bundan


先ず冒頭の部分;


岡山県の公立高校、いわゆる進学校ではなく、生徒たちの進路は就職と進学で50:50にわかれる高校である。4年制大学進学は少数だ。教室の一角で女性教員は1時間ほど生徒とその母親を説得していた。

「いまの成績なら国公立大学の進学を狙えますよ。どうですか」

「はぁ。いやまぁ大学ですか……」

「いけるなら大学を狙ったほうがいいですよ。その先の可能性も広がります」

「はぁ。でも先生、あと4年も勉強するんですか?」

普通に考えれば、地方で国公立大学を卒業すれば、就職やその先の進路で可能性は広がる。この教員が以前、勤務していた進学校の生徒たちなら、親も含めて二つ返事で目標として決まるような大学だ。それでも、反応は薄い。

そこで、気がつく。この生徒の親や親族に、大学へ進学した人はいない。進学校の生徒たちとはその時点で、価値観に根本的な違いがある。大学進学のイメージがわかず、高校と同じような教室で勉強する生活があと4年続くと思っている。

教員はBuzzFeed Newsの取材にこう答える。

進学校の両親はほとんどが大卒。この学校はシングルの家庭も多いし、親もほとんどが高卒。親の収入と学力格差が比例する問題はよく言われるけど、文化の違いもありますよ」

「大卒の家庭は大学のメリットを知っている。だから、最初から子供も進学させようとしますよね。でも大学のメリットを知らなかったら、進学のための貯蓄だってしない。学力以前に選択肢から消えるんですよ……」

「大学進学のイメージがわか」ないというのは凄く懐かしい感じがする。少年時代の自分がまさにそうだったのだ。「この生徒の親や親族に、大学へ進学した人はいない」。私の場合もまあそんなものだったよ。父親は旧制中学卒業、母親は旧制女学校卒業。父親にきょうだいは多かったけれど、その中で父親の兄(つまり伯父)は明治大学の二部を卒業していた。あと、叔母の一人が短大を出ていたかな。明治大学の伯父の妻(つまり伯母)は小学校の教員をしていたので、親族で大卒のカップルというのはその家だけだったのだ。また、子どもの頃に住んでいたのが東京郊外の新興住宅地だったので、住んでいたのは大人とせいぜい中学生くらいまでの子ども、それから偶に老人という感じで、近所に大学生のお兄さん・お姉さんというのは殆どいなかった。高校も非進学校だったので、何とか大学に通う先輩というのも殆どいなかった。大学入試の場合、問題の傾向と対策とかも含めて、高校の先輩の体験談を活用するというのはよくある話じゃないですか。でも、私が大学を受験したときに、そういう活用できる資源はなかった。勿論、一族で大学院に行った人はいなかった。多分、同世代で私のような境遇というのはマイノリティではなかったと思う。これを読む若い方は、sumita-mって下層の育ちなんだねと思うかもしれないけれど、そんなことはない。うちはまあ中の中くらいだったけれど、親戚は大方中の上の暮らしをしていた(車でいうと、スカイラインやクラウンに乗っているみたいな)。
ただ、同じように「大学進学のイメージがわか」ないにしても、現在のそれは、私たちの頃(1970年代)とは意味を異にする。
石戸氏の記事は吉川徹氏*2へのインタヴューに移る。

大卒は大卒同士で、非大卒はそこでかたまり、それぞれまったく違う文化のなかで生活をしている。いってしまえば、違う日本社会で生きている。自分とその周囲の視点だけでみる「日本」はかなり偏っている可能性がある。

「日本社会をケーキで例えると、下半分はスポンジケーキで、その上にミルフィーユがのっているんですよ。下は非大卒で、上は大卒ですね。大卒の人たちは細かい階層にわかれていて、どこの大学を卒業したかを学歴だと思っているんですね。それは『学校歴』であり、学歴ではありません。大きな勘違いです」

「学歴分断社会」などの著作がある、大阪大の吉川徹教授(計量社会学)はこう語る。吉川さんは、格差社会を読み解くための大規模面接調査「SSPプロジェクト」*3を率いるこの分野の第一人者だ。


(前略)大卒組は学歴をこんなイメージでとらえている。

「1番上には海外有名大や東大がいて、その下に早稲田大や慶応大があって……。自分はどこの階層にいるのかな」。ミルフィーユのように偏差値別に大学名が並んで、自分は何番目の層、ランクにいるかを気にかける。

「社会にでれば学歴は関係ない」という言葉もミルフィーユの階層での話だ。ミルフィーユの中での学歴と、社会的な地位とが逆転したとき、この言葉はリアリティーを持つ。しかし、その下にスポンジケーキがあることは見えていない。

学歴分断は、ミルフィーユのなかで生活する人たちが、スポンジケーキの存在を無視したときに起こる現象だ。

吉川さんは高卒(=非大卒。データ上、専門学校卒を含む)と大卒の間にある分断を「ガラスの天井」と呼ぶ。

「日本社会を調査データからざっくりと見ていくと、2人に1人は非大卒です。大学の定員もありますので、今後もこの数字は大きく変わることはないと予想します」

「学歴」の世代間再生産。昔と現在の差異;

「では、この記事を読む方の周囲はどうなっているでしょうか?75〜80%の大卒は大卒同士で結婚し、高卒は高卒同士で結婚する。いま日本で進んでいるのは、大卒夫婦の子供は大卒に、高卒同士は高卒にという流れです」

例えば、結婚式を想像してほしいと吉川さんはいう。招待された式で、大卒ばかりが集まっているのか、高卒ばかりが集まっているのか。双方、バランスよくいるのか。

「ある式場で一つの部屋は大卒ばかり。もう一つの部屋は高卒ばかり。そんなことが現実に起きているわけです。それは、昭和の時代と異なり、学歴が再生産されるようになったからです」


かつて、昭和の時代には、自分たちは高卒でも、子供には大学をでてほしいというインセンティブが働いた。それは、社会全体が好景気で、上り調子だったからだ。

いまよりも次の世代で社会は良くなる、ならば子供には学歴をつけさせたほうがいい。しかし、現状はどうだろう。昔は少なかった大学も増え、大卒人口も増えた。なにより親も高学歴化し、大卒のメリットを知った世代が増えた。

「大卒というのは、18歳からの4年間で1000万〜1500万円くらい自分に投資をして、将来の成功のためのチケットを買うこと」だ。

最初から子供に投資をするメリットを感じないーーあるいはできないーー家庭もある。そこで生まれた子供には親の学歴を超える動機はない。そんな子供の割合が高いのが、高卒親の家庭になる。

ミルフィーユ」は「スポンジケーキ」を知らない。たしかに。例えば、マイミクでもTwitterのフォロワー関係でも、学歴の一致度を調べればかなりのものになるのでは? 記事の後半では、「学歴分断」を様々な層が言及されていく。
「「高卒」というのは一つの「階級」、あるいはアメリカでいう「エスニシティ」に近いものに思えてくる」という言葉も出てくる。しかし、「大卒」と「高卒」、「ミルフィーユ」と「スポンジケーキ」の差異が「エスニシティ」、すなわち民族文化の差異のように質的な差異に達しているのか、それとも量的なものに止まっているのかは考えてみる必要があるだろう。吉川さんの「結婚式場」の喩えが気になった。これは1つの「式場」であることが前提になっている。つまり、大卒も高卒も同じホテルを使っているわけだ。相互に分断されていても、同じ「式場」によって繋がっている。ピエール・ブルデュー的なイメージというか、よく言われることというか、階級によって購読している新聞も、映画の好みも、音楽の好みも全然違うというわけではなくて、学歴を超えて同じマス・カルチャーに影響されている所謂大衆社会的な感じがまだあるということなのだろうか。「マイルド・ヤンキー」ということが言われるけれど*4、ヤンキーを端的に生きる人もいればヤンキーから距離を取ってヤンキーを批評したり揶揄したりする人もいる。その一方で、薄められてはいるものの〈ヤンキー性〉がメディアとかを介して前社会的に拡散していくことに脅威を感じている人もいる。どちらの傾向が強いのだろうか。