「悩み」は「社会的」である(中河伸俊)

ジェンダーで学ぶ社会学

ジェンダーで学ぶ社会学

中河伸俊*1「悩む――個人の悩みと社会問題」(in 伊藤公雄、牟田和恵編『ジェンダーで学ぶ社会学*2、pp.126-141)からメモ;


私は、『自殺論』*3デュルケームが示唆したのよりもっと強い意味で、あらゆる悩みは社会的だといいたい。悩みについて考えこんだり話したりするためには、まず、その悩みをあらわす言葉が必要だ。「太り気味の自分が嫌だ」「息子が悪い友だちとつきあっているようで心配だ」、あるいは「職場の上司が、食事やお酒にしつこく誘うので困っている」。こうした悩みごとの記述を読んだり聞いたりして、私たちがとりあえず「なるほど」と思えるのは、私たちが、肥満や男女のみかけのよしあし、青少年と非行、職場の上下関係と「セクハラ」といった事柄について、一種の常識を働かせることができるからである。こうした常識はおおむね、言葉を媒介にした意味とイメージの連鎖からなる。常識やその材料となる概念(言葉)は、私たちが個人個人で勝手にでっちあげたものではない。つまり、言葉は社会的なものだ。だから、言葉を通じてしか表現できない悩みも当然、社会的なものだといえる。(p.127)
自殺論 (中公文庫)

自殺論 (中公文庫)

また、

(前略)ある社会学者が、慢性痛(chronic pain)の患者のインタビュー調査をした。慢性痛とは、原因不明の痛みが長期間つづくという症候を指す言葉である。ある時期まで医学界は、こうした症候の存在を認めておらず、もちろん慢性痛という概念もなかった。慢性痛という言葉がなく、その症状についての医学的な知識がなかった時期には、その患者(正確にいえば後になって患者と診断された人)は、自分の痛みの症状を一貫性がある、理解可能なかたちで認識し、記述することができなかった(R. A. Hilbert, “The Acultural Dimensions ofChronic Pain: Flawed Reality Construction and the Problem of Meaning,” Social Problems 31, 1984)。悩みよりさらに個人的なものだとされる身体の痛みの場合さえ、それを認識し、他人にうまく説明するためには、社会的な概念やイメージのお世話にならなければならないのである。(pp.127-128)