「自然」と人倫(メモ)

承前*1

自然 (一語の辞典)

自然 (一語の辞典)

伊東俊太郎『一語の辞典 自然』から。

南宋朱子(一一三〇〜一二〇〇)は、「君臣の義は情性の自然に根づき、人の能く為す所に非ざるなり」として、君臣の義のような倫理的規範も、「情性の自然」として「天理の自然」に基づくものだとした。また「和んで楽しいときは食がすすみ、哀しみうれえるときには、食事が咽を通らない」とも言い、「此の二者は皆天理の自然にして然り、真情として自から忍びざる所ありて、人の強いて為す所に非ず」と言う。ここでは君臣の義のような倫理的な「本然の性」と、食欲のような肉体や五官の形質に基づく「気質の性」が、「天理の自然」として未分化なまま一体的に捉えられている。のみならず、倫理的・道徳的本性としての前者の当為が優先され、後者は前者によって導かれるべきものとされ、「主敬静坐」などによりその逸脱が克服されなければならないとした。(pp.68-69)
明末の呂坤――「人欲の自然」と「天理の自然」の区別。前者の肯定;

彼は「物理人情は自然なるのみ。聖人はその自然なるものを得て以て天下を観ず」として、物理人情の自然性を強調し、これをポジティブに捉えかえす。しかし同時に「然るにその人欲自然の私を払め、而して天理自然の公に順う」と言っているから、ここに肯定された「人欲自然」も「私」をとり払って「公」に順うことにより、ふたたび「天理自然」と合体することになる。しかし朱子のような「本然の性」というにとどまらず、「公」という概念をはっきりととり出したこと、さらに「人欲の自然」という個人的欲望と「天理の自然」という社会規範の二元性を自覚したことが注目される。(p.69)
清朝の戴震の「理義」概念――「血気の自然に由り、之を審察して以てその必然を知る。是れを之れ理義と謂う」「必然に帰してこそ、適にその自然を完うす」(『孟子字義疏証』、p.69に引用)。

「血気の自然」という人間本来の生存へと向かう欲望敵自然性には、もう一歩踏みこんで考察してみると、その奥に「理義」があり、それによって自然性はその本来の性質を実現して必然性へ至るというのである。この「理義」とは「人その生を遂げんとすれば、之を推して天下と共にその生を遂ぐる」ような共同体の実現であり、そこでは個人的な「血気の自然」の必然は「自然の極則」としての全体の必然と調和しているのである。(p.70)
伊東氏による総括;

さて、朱子から戴震にいたる(略)思想の流れは(略)結局「自然」のなかに、どのようにして人倫的な価値を組み入れていくかという問題に対するさまざまな解決の試みということになるであろう。それは天地の「自然性」を重んじた道家的伝統と、規範の「人為性」に則った儒家的伝統とを融合統一しようとする、統合への努力であったと言える。ヨーロッパの場合には、そこに神という超越者を媒介させ、人間の側から自然の外に規範が設定される。それが「契約」(ホッブス)であり、「実践理性の要請」(カント)であり、「客観的精神」(ヘーゲル)であり、また人間による「価値定立」(新カント派)であった。中国では神という超越者は存在せず、それを媒介することなく、あくまでも「天地」と「人間」を貫く「自然性」によって、この両者を統一しようとする。ために「自然」概念が分解を起こして、その二重化と再統一が試みられることとなる。それはあくまでも天地自然に内在する解決の試みであり、超越的な解決ではない。(pp.70-71)
フランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける』から引用しておく;

天に関わるこの超越は、何か根底的な外部性に属しているのではないし、原理的な他性を含んでいるわけでもない。その点、神に関して聖書が深化させた他性とは異なる。超越的に見えるだけなのだ。とはいえ、それは実在に対する仮象というわけではない。あくまで、この超越はわたしたちに内在するものであって、内在が尽くされて、絶対者になるのだ。中国では、少なくともその哲学原理においては、超越は、作動している内在の絶対化であり、その全体化にほかならない。そのために、聖人の計り知れない次元は、その完全な自発性とともにあるのだし、道徳的な成熟の果てに得られる超越も、自然的なものにほかならない。(中島隆博訳、p.277)
道徳を基礎づける―孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社現代新書)

道徳を基礎づける―孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社現代新書)