唐突ですが、フッサール

「文化を因果論的出発点に据えてしまうことの問題」という言葉遣いをしたのだが*1、これと関連するのかどうかはわからないが、フッサールデカルト省察』から抜き書きをしておく。
第10節「付論 デカルトは超越論的な転換に失敗した」から。


まず、(略)数学的自然科学への驚嘆から由来し、古き遺産として私たち自身をも規定している先入観から、私たちは身を守らねばならない。それは、あたかも、我思う(ego cogito)で問題になっているのは疑いの余地がない「公理」であり、それが他の証明されるべき仮説や、また場合によっては、帰納的に基礎づけられる仮説と一体になって、世界について演繹的に説明する学問のための基礎を提供しなければならず、こうしてこの学問は、ちょうど数学的自然科学のように規範に関わる学問、幾何学の秩序にしたがった(ordine geometrico)学問となるかのように、こう考える先入観である。それと関連して、あたかも、私たちの疑いの余地がない純粋な我(ego)のうちに、世界の小さな末端を、哲学する自我にとって唯一疑いえない、世界の部分として救い出したかのように、そしていまや、我(ego)に生まれつき備わった原理にしたがって正しく導かれた推論により、残りの世界を導き出していくことが問題になっているかのように、こんな考えを決して自明のこととしてはならない(浜渦辰二訳、岩波文庫、p.54)。
これを前提として、フッサール先生曰く、

しかし、残念ながらデカルトの場合は、我(ego)を思うところの実体(substantia cogitans)とみなし、それと不可分に、人間の魂(mens)または霊魂(animus)とみなし、因果律による推論のための出発点とするという目立たないが致命的な転換によって、まさにそんなふうに考えてしまった*2。そして、この転換によって彼は、不合理な超越論的実在論(略)の父となってしまった。すべてこれらのことは、もし、私たちが自己省察を新たに根本から始める姿勢に忠実にしたがい、また、純粋な直観ないし明証の原理に忠実にしたがうならば、それゆえ、私たちの判断停止(epoche)によって開かれた我思う(ego cogito)の場で、実際にさしあたりまったく直接的に与えられるもの以外は何も通用させず、自分で「見る」もの以外を何も表現にもたらさないようにすれば、生じることはない。そこでデカルトは過ちを犯してしまい、あらゆる発見のなかでももっとも偉大な発見の前に立ち、或る程度はそれをすでに発見していたにもかかわらず、その本来的な意味を、それゆえ超越論的主観性のもつ意味を捉えそこない、真の超越論的哲学へ導くはずの入口の門を、くぐることがなかった(pp.54-55)。
フッサールのいう「我(ego)」と「文化」を入れ換えることによって、〈文化本質主義〉の批判に使うことはできないか。
デカルト的省察 (岩波文庫)

デカルト的省察 (岩波文庫)