「合意」のことなど

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061211/1165799022へのyuyu99さんのコメントに対して、時間が空いてしまったが、短い応答を試みたいと思う。


価値相対主義者は規範が必要ないなどとはいわないと思う。規範があることで、多くの人が利益を受けることができるならば、規範は肯定される。互いが自由に動くことで最適な状態に達することができない状態(囚人のジレンマ)を規範によって、回避できるならば、規範は望むものになる。規範を設定することが、全体最適な状態に向かうならば、価値相対主義的な立場において、規範は肯定される。特定のグループのみの利益に供与するものならば、規範は否定される。
http://d.hatena.ne.jp/yuyu99/20061209/p1

これも違和感を覚える。何時の間にかに「全体」が導入されているからだ。「全体」の導入、これは様々な「価値」が鬩ぎ合う現世から超越することである。しかし、そのような超越は可能か。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061211/1165799022
それに対して、

単に合意のことをいってます。これこれは、こう決めたほうがみんなにとっていいんじゃないのという合意です。個々人を超越した神のような視点が必要だという風には考えません。
というコメント。
例えば、対面的状況やそれに準ずるような状況においては、「合意」がなされ・それがたしかに存在しているのかどうかを確かめるのはそれほど難しいことではないと思う。また、一度「合意」がなされたとしても〈心変わり〉があるかもしれないが、〈心変わり〉を防ぐ制度的仕掛けとして、例えば合意書や契約書を締結するという儀礼がある。しかし、社会の「全体」或いは全域というものにことが関わってくると、事情は一変する。(字義的な意味における)「合意」がたしかに存在するのかどうかということは私にはわからない。私にわかるのはせいぜい「合意」があるんじゃないのという雰囲気のようなものであり、或いは私は「合意」があることを想像できるにすぎない。つまり、私にとって在るのは、「合意」があるということについての「合意」にすぎないのだ。しかし、第二の「合意」にしても、事情は同じなので、そのまま行くと、無限遡行に陥ってしまうことになる。にも拘わらず、「合意」があることを信じ、そのことに「合意」しているとしたら、〈公正に〉議論が出尽くしたことを確認し・意見を集約し・「合意」が存在することを宣言する〈公正な議長〉が何処かに存在するということを仮構していることになる。市場経済における〈公正な競り人〉の存在の仮構とも比較できるかも知れない。ということで、ここでも再び「様々な「価値」が鬩ぎ合う現世から」の「超越」が登場することになると思うのだ。また、法にせよ伝統にせよ、それらの特有の力は(良くも悪くも)例えば「合意」といった私の主観性を超越したものとして私に迫ってくるところにあるということを考えてみなければならない。一面では、その力によって、法は個別的な「合意」を不要としてしまう。ウェーバーは「伝統的支配」と「合法的支配」を峻別した。しかし、個々の当事者の視座に立つ限り、この2つはかなり連続しているのではないかとも思ってしまう。つまり、個々の当事者がある特定の法をある特定の状況に対して適用しようとするのは、今までこのようにやってきて特に問題が出ていなかったので、今度もこれで多分OKだろうという思い込みによるものではないか*1。勿論、規則の適用については規則に書き込まれていないということを引くまでもなく、「OK」ではない場合というのはあるわけであり、そのことが法の適用に実存主義的な香りを賦与したりするということもあるのだが、ともかく法の正当性というのは積極的な「合意」というよりも偶々OKだったという消極性に委ねられるのではないだろうか。偶々OKだったということを積極的な「合意」だと見做そうとする限り、上でいったような超越的な〈公正な議長〉の存在を仮構せざるを得なくなる。また、偶々OKだったということに委ねることによって、法はOKではないという不「合意」に対しても開かれることになるのだろうと思う。
それから、mojimojiさんからいただいたご意見*2についてだけれど、私が思考という準位に定位していたのに対して、mojimojiさんは行為という準位に定位されていることがわかった。たしかに、行為の準位においては、〈相対主義〉というのはあり得ない。そこでは思考の準位における決定不能性は常に既に乗り越えられている。仮令何もしないという振る舞いをするにしても。言い換えれば、相対主義者だって決断しなければならない。多分それを踏まえて、mojimojiさんは

どうして寛容さの不寛容さへの転換が起こってしまうのか。それは、私達の考え方が多様であるとしても、社会のあり方に反映される考え方は、定義上一つでしかありえないからである。だから、実践上は多様な考え方を一つの考え方に収斂させる必要がどうしても出てくる。しかし、多様な考え方の優劣を「真理の探究において」つけることはできない。ではどうするか。「価値が一人一人の人間の生に対して持っている含意」について「真理を探究する」という方法を既に捨て去っている以上、価値相対主義者はほぼ確実に手続的正義の擁護に向かうし、程度の差こそあれ、無条件の遵法義務を要求することになる。そして、手続きを経た決定がある誰かの生の形式において看過できない問題を引き起こしていても、まずは手続きを経たという事実を尊重する態度につながる。価値相対主義者がしばしば教条主義的な、教条主義以前の思考停止とさえ思われるような手続的正義論者になるのは、ほとんど理論的必然である。
と述べられる。これに対して、何か決定的なことがいえるわけではない。ただ、唐突かも知れないが、mojimojiさんの文章を読んで、反証可能性を引き受けるという科学的態度の倫理的インプリケーションを再度吟味してみようとも思ったのである。

*1:それぞれの状況は類型化された仕方でしか現れないし、またそうでないと、状況を状況として了解することが不可能になる。

*2:http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20061212/p1