「不平等」と「格差」の語られ方(メモ)

白波瀬佐和子「いま不平等を語ること」『UP』443、2009、pp.6-11


白波瀬氏は「不平等」と「格差」と「貧困」では語られ方が異なるという。


不平等と聞くと、ニートやワーキング・プア、貧困に引きこもり、といったように具体的な一場面を想像されることが多い。不平等と格差、そのふたつの言葉に人びとが抱くイメージは異なる。不平等は、世の中の不条理が具現化された事象に結びつくことが多く、そこではミクロな個別事例が想定される。一方、格差は不平等よりも測定可能性が強調され、良し悪しの価値判断に幅がある。その幅を測るにはある程度の距離が必要であるので、格差があることに人びとが目覚めた頃には、勝ち組・負け組の間で自分自身のいない物語としての格差論が展開されていた。それはあたかも川の向こう岸を眺めるがごとく、当事者のいない他人事としての位置づけが見え隠れした。
不平等でなくて、格差、そこにひとつの鍵がある。格差とは格付けされた差であるので、「違い」「差」自身に価値が介入する。何がよくて、何が悪いのか。二引く一が一であることに、意味が付与される。それが格差である。一の意味がそれくらい大きくて、どれくらい致命的であるのかの確固たる指標が必ずしもあるわけではない。物事の良し悪しの判断は絶対的でなくて相対的である場合が多い。違いとは、何かと比べることであるから、相対的な概念なのである。ものが食べられない、衛生的な場所で休むことができない、病気を治すため医者にかかることができない等は、疑いなく許されるべきことでない。貧困は、こんな絶対的な「許されるべきでない状況」として捉えられる(岩田 二〇〇七*1)。だから、貧困を語る際、個別事例が強調されるし、それ自体への評価が分かれない。(pp.9-10)
「格差から貧困へと関心が移るなか、傍観者的な格差論から当事者を強調した貧困へとそのアプローチは大きくシフトする」(p.10)。しかし、

当事者であることは何よりも説得力があり、強烈だ。当事者からのメッセージは心に響く。しかしその一方で、みなが当事者になりえないことも事実である。当事者を強調しすぎることは、当事者になりえないものを排除することにも通じる。(ibid.)
といわれる。これはわかりづらいが、「当事者」或いは「ミクロな個別事例」に拘泥していると、「全体」が見えなくなるということであるようだ。曰く、

高齢女性の一人暮らしの貧困率が高いことは事実であるし、幼い子のいる世帯の貧困率が上昇していることも確かで、母子世帯の就労率が高いにもかかわらず高い貧困率を呈していることも事実だ(白波瀬 二〇〇九*2)。ただ、貧困にある子どもがすべて母子家庭にいるわけではなく、母子家庭の数自体が欧米に比べて低い日本では特に、二人親世帯の子どもの貧困率は無視できない。(ibid.)
ところで、「ニートやワーキング・プア、貧困に引きこもり」。「引きこもり」を前3者と並列に並べるのはどうか。

*1:岩田正美『現代の貧困――ワーキングプア/ホームレス/生活保護

*2:白波瀬佐和子『日本の不平等を考える――少子高齢社会の国際比較』