「自由」が嫌い?

山極壽一*1平成28年度学部入学式 式辞」http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/president/speech/2016/160407_1.html


曰く、


さて、京都大学はその基本理念として自由の学風を謳っています。基本理念の前文では、「京都大学は、創立以来築いてきた自由の学風を継承し、発展させつつ、多元的な課題の解決に挑戦し、地球社会の調和ある共存に貢献するため、自由と調和を基礎に、ここに基本理念を定める。」とあります。自由とは、自由の学風とは何でしょうか。京都大学の前身、京都帝国大学の創立は1897年ですが、その創設に大きく関わった人物に、当時文部大臣であった西園寺公望がいます。彼は、「政治の中心である東京から離れた京都に、自由で新鮮な発想から真の学問を探求する学府」を作るという希望を述べています。西園寺は、若いころに9年間フランスへ留学していますが、本学の初代総長になった木下廣次も4年間パリ大学に留学しています。木下は、「自重自敬」という言葉を京都大学の理念としていますが、創設に関わった二人の考えはフランスの自由思想に基づいていたと思われるのです。

 ご存知のように、3色に染め抜かれたフランス国旗の青は自由、白は平等、赤は博愛を意味します。18世紀末のフランス革命の際、パリ市民軍の帽章に用いられた3色の色を国旗にしたのですが、青の自由はジャン・ジャック・ルソーの思想に基づいています。すなわち、個人の自由と権利を尊重し、社会における個人の自由な活動を重んずる考え方です。ちなみに、京都大学のスクールカラーは濃青、濃い青で、東京大学は淡青、淡い青です。これは1920年に行われた両大学のボート部における第1回対抗戦の際、イギリスのオクスフォード(濃青)とケンブリッジ(淡青)のスクールカラーにちなんだとされており、自由とは直接つながってはおりません。ただ、少なくとも京都大学の創設に当たっては、西園寺と木下はフランスの自由主義を重視していたに違いありません。つまり、そこには個人の自由という発想が根幹を成していたと思われるのです。

ポール・エリュアールの詩「自由」を引用して、

このLiberté自由という言葉は、フランス人にとって特別な、そしてこの上なく美しい響きをもっているようです。この詩は、人間にとって決してあきらめてはいけない希望が自由であること、そしてそれは言葉によって生まれ、保障されるということを語っているように聞こえます。たしかに、それは真実だと思います。しかし、社会は言葉によってできたわけではありません。動物にも社会があり、複数の個体が秩序を持って共存していることを発見し、主張したのは、第二次世界大戦直後に京都大学で生まれた霊長類学でした。創始者今西錦司は、人間の社会と動物の社会は進化の中で連続していることを説き、動物の社会を成り立たせている原理から人間の社会が創られた進化の過程を描き出す重要性を強調しました。弟子の伊谷純一郎は、ルソーの「人間不平等起源論」に疑義を唱え、サルの段階ですでに先験的な不平等による社会が成立しており、人間の社会はその不平等の上に条件をつけて平等を実現させようとしたという仮説を立てました。わたしはそこに、自由は勝ち取るものではなく、他者との共存を希求するなかで、相互の了解によって作られるもの、という発想を読み取れると考えます。自由にとって、平等と博愛は不可欠な条件ではありません。しかし、人間の社会には、これらの3つの精神が必要なのです。そして、言葉はこれらの精神を謳いあげるとともに、人々を傷つけ、自由を束縛し、不平等を正当化する武器ともなります。現代の社会で起こっている抑圧や虐待は、この言葉に発する暴力によっているといっても過言でありません。
ところで、ルソー研究、さらにその前提としての仏蘭西啓蒙思想研究も京都大学のお家藝ではなかったか。先日亡くなった*2作田啓一先生もその一端に連なっていた筈だし、私よりも上の世代では、岩波新書桑原武夫『ルソー』でルソーに入門したという人も少なくなかった筈だ。
人間不平等起原論 (岩波文庫)

人間不平等起原論 (岩波文庫)

ルソー (岩波新書 青版 473)

ルソー (岩波新書 青版 473)

さて、BuzzFeedの記事によれば*3、この「式辞」について報道した『産経新聞』の記事のタイトルは「自由、多すぎませんか? 京大総長、入学式の式辞で「自由」をなんと34回も」*4。「自由」が多いというのはおかしなことなのか。但し、記事の本文はまともであり、「自由」に対する論難もないので、これは原稿を書いた記者のセンスではなくデスクのセンスということだろう。極左なのか極右なのかわからないけれど。