地平線(メモ)

大室幹雄『滑稽』から抜き書き;


交通と通信が相対的に未発達だった古代世界では旅行の全意味は地平線に収斂されていった。旅人にとって地平線はたんなる地理的な自然現象以上のものであり、彼の身体と精神とにたいして心理−精神的な現象として不断に出現し消滅し再び出現するゆえに人間学的なものであった。前途を望む旅人の遠い眼路のなかでたしかにそれは空間において天空と大地を左右に仕切る物理的な境界である。けれども旅人は時間を伴侶に地平の境界にむかって歩んでいく。彼がふと立ちどまった地点で地平線は生理的に可視の部分と不可視の部分とを截然と仕切ってみせる。そのとき同一の現象が旅人の心理に生起する。地平線は彼が背後に置き去りにしてきた既知の世界といま現に停止して認知しつつある世界とを未知の世界から区切るものである。
けれども地平線は絶対的ではない。旅人の進行につれてそれは徐々に近接し、不可視は可視に変化し、既知は未知の領域を侵犯し、やがて蒼莽たる地平線上の天空すら頭上に仰ぐことのできる青空になる。時間は旅人に属し、彼はいわば時間を味方に空間を領略していくのである。しかし地平線はやはり絶対的なものだ。底知れぬ地峡を越えて台地上に一つの地平線が脚下に踏まえられたとき、旅人は台地のはずれにもう一つの地裂が陥没して細い道がそのなかに滑りおちているのを、そしてそれのさらに向うに急峻なあるいは平坦な台地の起伏を認め、それをすばやくつきぬける憔悴した視線は新たな地平線を発見するだろう。雲の重く垂れこめた天地の区分もさだかでない、だが依然として彼の精神にたいし世界を既知と未知とに分割する境界にほかならない地平線を。
地平線は旅人を希望へ誘いだし、希望が実現されたときにはただちに彼を拒絶する。のり越えられるけれどものり越えられぬもの。旅人の視線、彼の生、だから彼の世界を限界めざして拡張させると同時に無限によって閉塞させるものであり、旅人の意力と無限とがのびきった戦線に露骨に激突し、つかのまの勝利ののちに意力が無力のうちに封じこめられるのである。このような両義性において地平線はオルテガのいわゆる人間の生を構成する環境なのだ。あるいは世界それ自体なのだといってもよい。だから旅人は地平線のこの両義性に立ちすくむことなく彼の堅実なのろのろとした進行をつづけなければならなかった。(後略)(pp.79-81)
「地平線」の「遮断」としての「城壁」――

周壁の内部では世界もしくは環境は本来的な両義性を喪失してこぢんまりと整序され、人々は地平線のわきたたせる不安と恍惚を意識することなく、人工の境界によって仕切られた小体な世界とのささやかな調和を心底から自足してしゃぶっていられるのだ。そして旅人が「富貴を欲して貧賤を悪む」いかにも人間臭い欲望の飢渇をいやすことができるのも、地平線を遮断したこの境界の内部――当時の中国人のいわゆる都邑において、通常人たちがあたたかな気息としめった肌の臭気をじかに感じあうときをおいてほかにはなかった。(p.82)
大室氏はその後に、ジンメルの”Exkurs uber den Fremden”とシュッツの”The Stranger”を援用する(p.107ff.)。この時代(1970年代半ば)において、シュッツは先ず〈異人論〉の思想家だったのか。しかし、ここでのように、シュッツの”Stranger”をジンメルの論攷の続編のように扱うのは、はっきり言って誤読に属する。定住民に対するノマドということに定位しているジンメルのテクストに対して、シュッツのテクストは寧ろold comerに対立するnew comer(新参者)の社会学というべきものだ。また、「帰郷者」は留守の間に「故郷」が変化してしまったが故に「故郷」に改めて新参者として参入せざるをえないことを論じた”The Homecomer”論文とセットで読まれるべきものだろう。
ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)

ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)

Collected Papers II: Studies in Social Theory (Phaenomenologica)

Collected Papers II: Studies in Social Theory (Phaenomenologica)