Goffman/phenomenology(メモ)

承前*1

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

コロキウム〈第2号〉―現代社会学理論・新地平

速水奈名子「身体社会学とゴッフマン理論」(『コロキウム』2, pp.80-102)の続き。
3節「ゴッフマン理論における身体再考」の3-2「現象学的社会学との比較」(pp.91-95)。「ゴッフマン理論における身体と現象学的身体の相違点」(p.91)。
「ゴッフマン理論と現象学の関係」についての先行研究(ibid.);


Dua, H. R. “The phenomenology of miscommunication” in Riggins, S. H. ed. Beyond Goffman: Studies on Communication, Institution and Social Interaction, Mouton de Gruyter, 1990
Lanign, R. L. “Is Erving Goffman a phenomenologist?” in Beyond Goffman: Studies on Communication, Institution and Social Interaction, 1990
Crossley, N. “Body Techniques, agency and Intercorporeality: On Goffman’s Relation in PublicSociology 29-1, 1995


先ず、「基本的にゴッフマン理論は――デュルケム理論からの影響により――現象学的な観点とは相反する観点から、つまり社会(的構造)が主観的意識に先行するという観点から構成されたものである」(ibid.)。この見解に関しては、ただ?を付しておくだけにとどめる。
さて、Frame Analysis(1974)における「フレーム」概念を踏まえて、


(前略)ゴッフマン理論における経験とは、状況を組織化するプロセスであった。つまり彼は、経験をこの原基的フレーム*2によって構成されるスタティックなものとは考えず、それがフレームの変換にともない多様に組織化されていくものととらえていたのである。このような観点から、彼はシュッツが――多元的現実の議論を展開していた点を高く評価しつつも――日常生活を「至高の現実」と定義するにとどまり、多様に変化する現実の認識過程を考察しなかったことにたいして批判していた(Goffman [1974: 5-6])。すなわち、現象学的社会学(シュッツ)が、至高の現実としての日常世界を根幹としつつ、他の多元的な現実世界(夢、神話等々)との関わりを――記号的、シンボル的な分析を通じて――主題化することに焦点を当てていたのにたいして、ゴッフマンは、フレームという概念を用いて、日常世界そのものの内部における、多元的現実の組織化について分析を進めていたのである。
ゴッフマンは行為者が原基的フレームを状況ごとに変容させながら、経験を多様に組織化していく様子を、彼独自の概念を用いて説明しているので、ここではそれを確認しておきたい。(略)彼は行為者が、日常生活を通じて身体化された儀礼を、互いに感知しあうことでフレーム転換を可能にしていると考えていた。つまり、ゴッフマンは行為者が互いにディスプレイを感知することを通じて――例えば「まじめ」から「遊び」への――フレーム転換が可能になると考えていた。(p.93)
Frame Analysis: An Essay on the Organization of Experience

Frame Analysis: An Essay on the Organization of Experience

Collected Papers I. The Problem of Social Reality (Phaenomenologica)

Collected Papers I. The Problem of Social Reality (Phaenomenologica)

シュッツの多元的現実論が実はその名にも拘わらず多様な現実のあり方を提示することよりも、寧ろ日常生活世界(ワーキングの世界)と科学を初めとする理論的世界との相互の移行関係の機制を示すことに重点が置かれていたこと、(The Human Conditionにおける)アレント用語を持ち出せば、vita activaとvita contemplativaとの区別に関わっていたことを念頭に置くべきであろう。また、シュッツにとって、世界(「限定された諸意味領域」)間の移行のメルクマールとなるもののひとつは、生への注意の強度や様態の変容とそれに伴う態度(世界への関係)の変容であるので*3、その限りではゴッフマン的なフレーム分析と響き合うといえよう。また、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090519/1242760021で言及した本嶋学「A. Schutz現象学的科学論のレトリック的転回−−人間科学のレトリシャンとしてのA. Schutz」も参照のこと。それから、シュッツにおいて「日常世界そのものの内部における、多元的現実の組織化」を探るとしたら(既にもうここでは「多元的現実」という名辞は不適当になるのだが)、寧ろそのレリヴァンス論(『生活世界の構成』)に求めるべきかも知れぬ。
The Human Condition

The Human Condition

生活世界の構成―レリヴァンスの現象学

生活世界の構成―レリヴァンスの現象学


またフレーム転換はフレーム自身が持つバルネラブルな性質に起因するとともに、人間の「変換能力」によっても促進されるとゴッフマンは指摘している。彼は日常生活において、人々が同時に複数のフレームにかかわりあいながら、相互行為を遂行している点(「フレーム外活動(out of frame activity)」に言及しつつ、現代社会において人びとの関心は多様化し、そのためにフレームが著しく多元化してきているため(multiple laminations of experience)、ひとつの状況に集中することが困難であると主張している(「活動の投錨(anchoring of activity)」の困難)。
さらに彼は、一つの状況に集中することが困難であると指摘するばかりではなく、状況それ自体を認識することが難しくなりつつある点にも言及している。ゴッフマンが指摘するとおり、信念体系が分化した近代以降の社会においては、いずれのフレームにも信念をもって浸ることが困難であり、そのため、経験の組織化それ自体が「スムーズ」に展開されないこともしばしばおこる(極論的には統合失調状態)。
このように、信念体系が分化した現代社会においては、フレームが多元化するとともに、それがシュミラークルとして露呈することで、日常的な相互行為は困難になるだろうと悲観的な結論を提示していた。このような観点は、志向的意識の分析にもとづきつつ、一時的構成の考察を進めた現象学的社会学とは、論理構成が異なるということは言及するまでもないであろう。(p.94)
そうかな? ここで言われていることというのは、(現象学的社会学に属する)ルックマンの『見えない宗教』、バーガーの『社会学への招待』やHomeless Mindを読んだ人ならかなりお馴染みの事柄に属するだろう。勿論、バーガーがゴッフマンからの影響を隠そうとはしないということはあるわけだが。
見えない宗教―現代宗教社会学入門 (1976年)

見えない宗教―現代宗教社会学入門 (1976年)

Invitation to Sociology (Pelican)

Invitation to Sociology (Pelican)

The Homeless Mind: Modernization And Consciousness

The Homeless Mind: Modernization And Consciousness

さらに、「ゴッフマンは、初期の著作から一貫して、自己を状況において分裂したものとして捉えていた」(ibid.)として、曰く、

(前略)ゴッフマンが扱う自己とは、ライフコースを通じて構成された、心理学的な統合的自己ではない。彼は基本的に、相互行為の場におけるパフォーマンスを通じてのみ自己呈示が可能になると考えていた。要するに、彼にとってこのパフォーマンスがなければ、自己は問題にならない。ゴッフマンはこのような状況的自己が、状況(フレーム)ごとに与えられる役割(role)に、パフォーマーとしての人(person)が没頭することで制御されると考えていた。再度指摘するが、このパフォーマーとしての人も「本当の自分」といった統合的な自己をさしているのではなく、「学習能力があり、羞恥の能力をもつ心理生物学的な人」一般を指している。ゴッフマンは状況ごとに与えられる役割をパフォーマーがうまく遂行することで、この状況的自己像が維持されると考えていた。また、彼はこの自己像の維持が、相互行為の組織化(相互行為秩序の維持)にもつながると考えていたということができる。
このように、ゴッフマンの自己分析の観点は状況的なものであり、ライフコースを通じて構成された自己意識を扱う現象学的な考察とは一線を画するものであるということができるであろう。(p.95)
現象学的な「自己」はここでいうところの「心理学的な統合的自己」なのかどうか。それが超越論的主観性であるなら、「統合的自己」という経験的なものではあり得ず、またそれは実体としてではなく機能としてのみ論じることができるものであろう。『デカルト省察』におけるフッサールデカルト批判は、デカルトが経験的な私と超越論的主観性を取り違えてしまったことに対してではなかったか*4。但し、シュッツは超越論的現象学の途を行かないので、当然その「自己」は経験的(内世界的)な自己なのだが、それはここで言われるところの「統合的自己」に限定されるものなのだろうか。勿論、その自己は過去、「経験のストック」を相続したものではあるのだが。
デカルト的省察 (岩波文庫)

デカルト的省察 (岩波文庫)