両義性のその先は?

「わざと女にぶつかる理由が想像できない人がいることにビックリした」https://anond.hatelabo.jp/20180527010025


新宿駅の「タックル」兄ちゃん*1を承けてのエントリー。増田が自白しているというわけではないのね。


イケてる奴にも、イケてないオタクにも、なりきれなかった奴ならぶつかる理由がわかるかもしれない。


イケてる奴みたいに、女に相手にされた事がなくて、女が憎くて、けど、イケてないオタクみたいに「俺非リア充w」だし、だなんて開きなおれる程じゃなくて

もうどうしたらいいかわからなくなって女にぶつかるんだよ。

モテる奴なら「モテない男か痴漢目的だろうな」とか「やばwキショw」って思う

いや、違う。


よくあるオタクみたいにコイツは「童貞だからw」って開きなおれなくて

リア充にも非リア充にもなりきれなくて、ぶつかるんだよ。


女に対して恨みきる事も、諦めて開きなおりきる事もできなくてぶつかるんだよ

どうしたらいいかわかんなくて、ぶつかるんだよ。

ここからわかるのは、危険(穢れ)というのは曖昧性(両義性)にあるという構造人類学(象徴人類学)でさんざん言われてきたことの再確認である。穢れ(或いは象徴的危険)においては同一律矛盾律が脅威にさらされるのだ。黄昏時が逢魔が時であるのは、それが昼でも夜でもないからだ。エドマンド・リーチ『文化とコミュニケーション』*2山口昌男『文化と両義性』*3、或いは吉田禎吾『魔性の文化誌』*4といった書名を挙げておくけど、ジンメルマンハイムに由来する「境界人」(マージナル・マン*5という概念を想起してもいい。でも、いえるのはそこまで。「わざと女にぶつかる」には結びつかない。或いは「わざと女にぶつかる」理由になっていない。象徴的危険の表出のされ方は「わざと女にぶつかる」以外の仕方を取る可能性がいくらだってあるからだ。因みに、「両義性」或いは象徴的危険というのは一方的にネガティヴな事態ではない。というか、危険であるが故に根柢的なイノヴェーション、とんでもない新しさをもたらしてくれる可能性を持っているわけだ。
文化とコミュニケーション―構造人類学入門 (文化人類学叢書)

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文化と両義性〈哲学叢書〉

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魔性の文化誌 (1976年) (研究社叢書)

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