ドラッグなど

酒井法子事件*1以来、世の中は思考停止のまま、ドラッグ・バッシング、そこから派生して、クラブ文化バッシングということなのかも知れないが、その酩酊から取り敢えずは醒めて、社会や文化におけるドラッグの意味や機能について落ち着いて、すなわちドラッグの善悪についての判断を一旦停止して、思考してみるべきなのではないか。
そういう中で、


その音楽やカルチャーの価値を決めるのは“ドラッグの有無”ではないはずです。スピリチュアライズドよりもモグワイの方が“ドラッグをやっていないから素晴らしい”なんて話にはならないでしょう?

また、“音楽の力だけで”とありますが、その音楽やVJなどの表現手法の大半はドラッグ・カルチャーの影響下で生み出されたものでしょう。「ドラッグ・カルチャーの成果物」を排除しては成り立たない文化です。その成果物に支えられていることを称揚しながら、しかしそれを生み出した文化は否定する。僕には酷く歪んだ態度であるように思えて仕方ありません。まるで、ロック好きの白人が黒人文化を必死に否定しているかのような。

個人的には、こうした態度の延長上に、アーティストがドラッグで捕まった途端その作品が自主回収されるというあの奇妙な光景があるように思います。
http://d.hatena.ne.jp/inumash/20090812/p1

というのはきわめてまっとうな意見であるように思える。クラブ文化については昏いのだが、ドラッグ抜きでロックの発展を考えることはできない。何しろ、サイケデリックというジャンルまであるのだから。良くも悪くも、ドラッグを常にどこかに引き摺りながら発展してきた音楽。それはロックよりも歴史の長いジャズにしてもそうだろう。文学でいえば、ボードレールジャン・コクトー坂口安吾オルダス・ハックスリーもカルロス・カスタネダも図書館では閲覧禁止にし、公的な言及は差し控えろというのだろうか。アンリ・ミショーの絵も美術館から撤去? まことに、

こうなると、ドゥービー・ブラザーズなんて、グループ名自体が駄目ということになるのか。そういえば、昭和天皇が危篤になったとき、Dead or Aliveはグループ名それ自体が不敬だということで放送禁止になった。さらに、麻生太郎首相はどうなるのか。麻が生える。こんなのもってのほか?
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090219/1235052294
ということになる。
勿論、ドラッグがロックやジャズや文学の〈本質〉に属しているといいたいわけではない。但し、無視してかまわないような表面的なエピソードでもないだろう。それは「知覚の扉(doors of perception)」としての側面があり、「扉」を開けた者による成果としての表現を、私たちがドラッグのリスクなしに享受しているということなのだ。


さて、http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20090813/1250126699は「クラブカルチャー」の起源について。難をいえば、ヒップホップ(米国)に偏っていて、そのヨーロッパにおける歴史への言及がないこと。また、日本に関して言えば、1970〜1980年代のディスコ文化との差異が見えないこと。自民・社会連立政権が成立した前後に、ジュリアナのようなディスコ文化が廃れ、(アクセントを変えた、つまり部活やホステスがいる場所とは違う意味の)クラブという言葉が広まり始めたような気がするのだ。