環境の2つの準位?

「環境問題への対処は難しい」http://harie.txt-nifty.com/annex/2008/11/post-2654-1.html


張江洋直氏の「環境問題」についてのコメント。それに対して、コメントというよりはやはり余白への落書きという仕方で、少し書き留めておく。
「環境問題」問題云々というとき、簡単には架橋できないような2つのかけ離れた準位があって、普段専門家とか素人が「環境問題」を云々するときには、この2つの準位のギャップがないかのような見かけがつくられ、この2つがシームレスに繋がっているかのような、或いはさらに準位のギャップなどないかのような感じになってはいないだろうか。レヴィ=ストロース小田亮*1的な意味での「真正性の水準 niveaux d’authenticité」の違い*2。environmentが直訳すれば取り巻くことであるように、環境とはそもそも私を取り巻く様々なことである。それと地球規模での環境問題。これらはシームレスに繋がるのか。張江氏が「「究極的な目標」、この場合は「地球規模の環境保全」ということになるのだが、こうした、だれも異論をさしはさめないような「目標」から演繹的に議論を下降させる流儀を採ると、絶望的な息苦しさのなかで、「個人」や「自由」は必ず窒息してしまう」と書いていることも、この2つの準位というか準位のギャップと関わっているわけだろう。それで、氏が挙げている「昔は」言説にしても、個人的な思い出話におけるそれと、「原始共産制」云々という〈大きな物語〉のそれとは区別するべきなのだろう。勿論、第三者的に検討すれば、個人的な思い出話にも過去の美化とかそういうのはあるとはいえ。