伝統論のためのメモ

やはり一度は伝統論というのを纏めておかなければならない。
伝統――現象学的側面(前提)と解釈学的側面
伝統を取り敢えず過去の人間の言説や所作の痕跡の総体と暫定的に定義すること。伝統は共同体を前提とする。それは伝統を保持し・伝承するためだけではない。伝統を伝統として同定すること、それは私が当該の過去の人間を同じ特定の共同体のメンバーとして同定すること、私自身がその伝統の共同体のメンバーとしてコミットする限りにおいてのみ可能である。伝統に言及すること、それは私自身を伝統の共同体のメンバーとして同定することである。伝統に言及することは、伝統を(ポジティヴにであれネガティヴにであれ)保持し・伝承することであるから。また、そのことによって、伝統は日々、さらには時々刻々更新される。
例えば、儒学という伝統。それは『論語』とか『易経』といったテクストだけではない。数千年続いてきて・さらに・現在も続けられているそれらに対する註釈、コメンタリー、批判等々の実践(の痕跡)の総体である。これは、聖書的伝統とかタルムード的伝統という場合でも同様。或いは、もっと身近な例として、特定の理論・学説を研究しようとする学者が直面する苦労。例えば、私がデュルケームの学説を研究しようとする場合、私が直面するのは遺されているデュルケーム自身のテクストだけではない。それとともに、100年余りに亙って蓄積されてきた有象無象の〈デュルケーム論〉に立ち向かわなければならない。
私1人では(或いは誰も)伝統の総体を把握し尽くすことはできないということ。このことを考えるためのヒントとして、


 図書館学やその周辺の情報系学問は、極論すると、現実に対する人間個人の能力の敗北宣言に端を発している。

 古代、人間がその社会を維持するために必要だった知恵・知識・情報は、語り部と言う個人内に全て納まっていた。しかし社会の発展とともにその量が増えるにつれ、それらは分類され、複数の語り部によって維持されるようになる(ミューズは9人も必要だ)。やがて文字と書物が発明され、人間は語り部ではなく書によって必要な知識を得られるようになった。しかしそれは、もはや一人の人間が社会全体を把握できないことの証明でもあった。

 一旦は人間の手から離れたこれらの情報を、もう一度支配下に置こうとして生まれたのが、長男である図書館学であり、やがて生まれたデータベース系の技術である。そこに蓄えられた情報一つ一つを理解することなく取り扱う技術の誕生である。
http://d.hatena.ne.jp/eiji8pou/20070428/1177691301

という文章あり。
派生する問題として、(原理的な不可能性を抱えた)伝統の客体化を巡る政治的問題。また、(自覚的な)伝統主義としてのファンダメンタリズムという問題。幾重にも複雑に絡み合ったカオティックな(とても全容を見渡すことはできない)言説等々の集積としての伝統を豊かさとして肯定するのか、それとも〈原典〉に対する汚染として拒絶するのか。