4つの生(メモ)

承前*1

共同存在の現象学 (岩波文庫)

共同存在の現象学 (岩波文庫)

カール・レーヴィット『共同存在の現象学』、II「共同相互存在の構造分析」第一部「共同世界と「世界」ならびに「周囲世界」との関係」第3節「「生」の四つの根本的意義とその連関」。
ここでいう「四つの根本的意義」とは、


「生物学的な生命」
「伝記的な生涯」
「共同相互存在」としての生
〈実存〉としての生


先ず、「生物学的な生命」について;


生(Leben)が意味するのは、まず無生物もしくは死んでいるものとの区別にあって、一般にただ生きているという意味で生命あるものである。この意義方向を生物学的な生命という術語で劃定しておくことにしよう。こうした意義における「ただの」生(”das” Leben)は、たんなる生物という、人格的にはまだ規定されていないありかたであるという意味で、中立的な生命である。(p.62)
「伝記的な生涯」について;

「シュライエマッハーの生涯(Leben)」といった標題が意味するのは、「シュライエマッハー」という名がたまたま付与される、生物学的−中立的な生物ではない。人格的な固有名が逆に、そのような種の生の意味を規定している。そうした生が、しかもそうした生だけが、伝記的にまた自伝的に語られうるのであるから、生のこうした意義を伝記的な生涯として劃定しておくことにする。ほんらい伝記的であるのは一人称単数の生、人間それぞれの生なのである。(pp.62-63)
ここで、biographyという言葉が現象学、特にシュッツの影響を受けた社会学においてひとつの鍵言葉であることをマークしておく。例えば、バーガー夫妻の『バーガー社会学』の原題は Sociology: A Biographical Approachである。
バーガー社会学

バーガー社会学

「生動的な*2ありかたが発現するかたちのすべては――そのもっとも強い発現は人間的生が一般に性的に規定されていることである――、それ自体として(eo ipso)人間学的な意義を有している」(p.63)。これに対する註に曰く、

ひとは「思春期」にじぶんが性的なありかたをしていることを意識し、かくて同時にじぶん自身をも意識する。いわゆる「自己意識」の分析が――その極端なものは哲学的「反省」である――ただ「解釈」しようとするのではなく現実に「理解」しようとするならば、この「自然的」であると同時に「実存的」でもある生の時間にまでさかのぼって、それを把握しなければならない。(p.65)
「人間の存在論的に二重の本性」を巡って;

(前略)人間的生の自然的な基礎も「精神的な基礎」も、それ自体としては、一義的に−基底づけるという意味で「基礎を与える」ものではない――むしろ両者に対して、人間の存在論的に二重の本性が基底となる。人間は自然的でも精神的でもなく、非−自然的な存在者なのである。自然的な衝動的生を、精神分析学では無−意識的な生と特徴づける。この特徴づけは、したがって、「生動的なありかた」というまったく規定されていない位層的な概念にくらべれば、方法論的により積極的なものである。後者は生動的なものが領域的に一義的であるかのようにあらかじめそれを偽造するけれども、人間における生動的なありかたはそのような一義性を有してはいないのである。無−意識の概念は、とはいえすくなくとも人間的な現存在を構成する両義性を暗示している。かりに人間的生が統一的な存在様式を有しているとするならば、人間的な生はおよそいかなる「問題」でもありえない。すべて一義的なものがそうであるように、問うにあたいしないものとなるだろう。(略)「感性と悟性」「傾向性と義務」、愛の自然的な解釈とキリスト教的な解釈――これらは、人間的な「自然」が原則的に分裂していることに対して与えられた、さまざまな表現にすぎない。ニーチェがそう語っているように、キリスト教はその分裂を人間本性へともち込んだのではない。たんにそれを先鋭化して、前景に押しだしたにすぎないのだ。(pp.64-65)
ここでレーヴィットニーチェの具体的なテクストを挙げていないけれど、『道徳の系譜』をマークしておくのは自然なことであろう。
道徳の系譜 (岩波文庫)

道徳の系譜 (岩波文庫)