出逢わないということ、その他

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070427/1177703588で言いたかったことは、結局私が「尾崎豊」に出逢わなかったということだ。それとともに、「反抗」言説を巡っての違和感を記した。「尾崎豊」を積極的に遠ざけていたといわけではない。しかし、ほんとうに出逢わなかったのだ*1尾崎豊と出逢ってしまった人は幸いだと思うし、その幸福を、また世間に流通する紋切り型を脱した「尾崎豊」を是非語り続けていただきたい。
「反抗」というのが特に「若者」にステレオタイプ的に特化されつつ語られることによって、結局は大人その他の体制に包摂されてしまうということはある*2。ところで、「反抗」言説というのに最初に違和感を抱いたのは、その昔、RCサクセションエリマキトカゲが登場する三菱自動車のCMソングを歌ったとき、オヤジ向けの週刊誌か何かで、ロックっていうのはそもそも〈反体制〉の筈なのにCMソングなんか歌っていいのかよというノリの記事を読んだとき。普段ロックなんか聴いてもいない癖にしっかりとロック=〈反体制〉というステレオタイプはしっかりと持っているこの書き手のことをバッカじゃねぇかと思ったのだ。「反抗」ということで、もう一つ無駄話をすると、中学の時、ある教師が私に態度が反抗的だ。何か文句があるのかと言った。私は「理由なき反抗」だといったが、その途端ぼこぼこに殴られた。無教養が人間を凶暴にするという証左である。話を戻すと、だからといって、「反抗」を貶めるつもりはない。「反抗」というのは、したい/したくないの問題ではなく、一方ではある振る舞いが社会的に「反抗」として構成されてしまうという問題であるとともに、何よりも状況次第では誰でもが自ずと「反抗」してしまいうるのだ。また、第三者的に見れば、「反抗」は世界に或る種の贈与をしているということが多いわけで、その意味では世界は「反抗」を必要としている。
ところで、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070427/1177703588で記した「尾崎っていうのが歌っている内容は俺たち全共闘世代にとっては既に決着がついているようなものなんだ」というH先生の言葉(文責は私)についてだけれど、これは「反抗」を価値として押し出す態度の無効性についてである。
さて、私が「尾崎豊」に出逢わなかったのは、多分前に書いたように世代の問題というのがあるとは思うのだけれど、一つには、ずっと〈少年〉的なものよりも〈少女〉的なものに惹かれ続けていたということもあるのかも知れない。ただ、大塚英志は『少女民俗学』で、〈少女〉が共鳴する無垢なるものという文脈で、(「森の老人」としての)昭和天皇とともに尾崎豊に言及していたよな。

少女民俗学―世紀末の神話をつむぐ「巫女の末裔」 (カッパ・サイエンス)

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*1:私と同世代では、例えばさだまさしにどっぷりとはまって、今でもファンでい続けているという人も多いのではないかと思うが、さだまさしに関しては、積極的に避けていた。エンガチョである。

*2:ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』は、「反抗」のパラドクスを階級の再生産という局面に注目して描いているともいえる。

ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

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