「機械」であることの含意

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070128/1170005200に対して、http://riko341.blog1.petitmall.jp/blog-entry-1.htmlからトラックバックいただいた。ここには柳沢伯夫*1のプロフィールがあり、柳沢伯夫に言及した様々なblogのエントリーがリンクされており、さながら〈柳沢伯夫ポータル〉の趣。この柳澤っていう人、WCEでも名を馳せたのね。
さて、http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/f55ab128adb7ffe2ac77d6e9fb6fefbfは、「人間はどこまで機械か」と題して、「柳沢大臣への批判は過剰な気がする」とし、「臓器移植」問題を持ち出し、さらに、


たぶん、「産む機械」発言を批判している人たちのほとんどは素朴なヒューマニズムフェミニズムを信じ、政治家が人権を軽視した(かのごとき)発言したことを怒っているのだろう。
そのことを批判しようとは思わない。
だが、もし彼らが「人間を機械扱いするなんて許せない!」と断罪するだけで満足してしまったら私は残念に思う。
産む機械」という言葉は「人間はどこまで機械なのか」を考えてみるいい機会である。
「社会はどこまで人間を機械として扱っているか」「機械視が許容される限度は情況によって変化するか」「人間はどこまで機械に置き換え可能か」といったことを考えてみると「人間とは何か」という不可思議な問題の答えにわずかでも近付けるはずだ。
という。
「「産む機械」という言葉は「人間はどこまで機械なのか」を考えてみるいい機会である」って、何を今更言ってやがるんだという感じだ。実際、機械論vs.生気論というのは近代生物学が始まって以来の論争点だったわけだが、専門の学者ではなくても、身体=機械というのは或る程度までは正しいが、そうはいっても身体を機械に還元し尽くすことはできないというのは既にcommonsenseに組み込まれた事柄だと思っていた。要するに、人体とその人体において営まれる生、生ける身体は違うということだ*2
なので、「たぶん、「産む機械」発言を批判している人たちのほとんどは素朴なヒューマニズムフェミニズムを信じ、政治家が人権を軽視した(かのごとき)発言したことを怒っているのだろう」と思考停止してしまうのは面白くない。機械が作動する条件を考えてみる。その中でも重要なのは、スウィッチをONにするということだろう。また、スウィッチをOFFにすれば機械は作動しない。出来事としての機械の作動には、スウィッチをONにしたりOFFにしたりして機械を操作するものと操作されつつ作動する機械という両極が存在することになる。これを人間のコミュニケーションに転用すると、コミュニケーションを命令/服従(実行)に還元するということになる。問題とされているのは、多分この還元の思考なのである*3
ところで、

まー、あんまりひどいせいか、最初「産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」のところだけ読んで「きっと政府は極秘に人口卵巣、人工子宮の開発に成功していたに違いない」とか精いっぱい好意的に解釈しようとしたのだが(何のためにだ)、無理でした。せっかくの人の厚意をムダにしやがって。

そもそも「15−50歳の女性の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」ですむ(「頑張ってもらうしかない」っちゅう無責任さはあるが)ところを、なぜわざわざ「機械」という必要があるのか(しかも言い訳までしながら)っていうと、言いたくてたまらんかったってことなんじゃないか。もしかしたら普段から全部機械に例えて考えてるのかもしらんね。1人、2人しか産まない女は生産性が低いとか、産まない・産めない女は不良品だとか、30歳過ぎてようやく第一子を産むような女はポンコツだとか。あらやだ、なんだかシャレになってないわよ、奥さま。
http://d.hatena.ne.jp/debyu-bo/20070128/1169991752

という感想は、私が書いた「何とか力(労働力とか腕力とか脚力とか)として人間を捉えるとき、常に既に人間は機械と等価なもの、置き換え可能なものと見做されているわけだ」ということと関係あるか。
また、別のエントリーでは、「発言そのものよりは立場とか文脈とか発言の背景にある認識の問題ではないか」*4と言われる。曰く、

例えば、いちサラリーマンが「所詮労働者なんて企業の歯車に過ぎない」といっても怒る人は少ないと思うが、これが経営者や厚生労働大臣だったら「お前がいうな」という反応が出てくるだろう。しかし、経営者や大臣であっても、「現状では企業の歯車になってしまっているが、そういう状況は問題だ」という批判的文脈でいうのであれば、そんなに責められないだろう。
ちょっと視角を変えると、これは自称と他称の問題でもある。自らを機械と定義してしまう場合、責任がちゃらになってしまう(例えば、〈アイヒマン問題〉)。逆に言えば、「機械」に自己責任は問えない。どんな結末になっても、「機械」自体は悪くない。悪いのは、設計者であり、製造者であり、誤った操作であり、停電等々だ。

*1:「柳澤」が正しいらしい。

*2:独逸語にKorperとLeibの区別あり。

*3:とはいっても、事情はそれ程単純ではないといえるだろう。適切に機械を操作するためには、機械固有のメカニズムに服従しなければならない。或いは、自らを機械に同化させなければならない。

*4:http://d.hatena.ne.jp/debyu-bo/20070130/1170091753