「帰宅」せず

少し前にツイッターで「無言の帰宅」が話題になっていた。「無言の帰宅」というのは〈死ぬ〉ことを表すクリシェなのだが、それが廃れて、字義的な意味しか伝わっていない。私も息子に訊いてみたが、彼もリテラルな意味しか思い浮かばないようだ。
飯間浩明*1曰く、


文学的表現というよりも「報道」で使われるクリシェ。それもけっこう最近も使われている(ここに挙げられているのは安倍晋三殺害事件)。もしかしたら「無言の帰宅」を知らないというのは、若い人たちの(新聞やTVなどの)マスコミ離れと関係してるのか。
しかし、私が最初これを聞いて思ったのは、日本における葬儀の変容である。現在殆どの場合、死んでも〈遺体〉として「帰宅」することはないのではないか。病院とか介護施設で死んでも、自宅に「帰宅」することなく、葬儀場に運ばれ、葬儀が終ると火葬場へと送られる。「帰宅」するのは灰になった後である。しかし、こういう「帰宅」の仕方はかなり新しいものだ。昔でも、マンション(高層の集合住宅)に住んでいた人はそうだったろう。何しろ、マンションのエレヴェーターでは棺桶を運ぶことはできないから。マンションで暮らす人が増えたとも言える。しかし、故人が「帰宅」しないというのは戸建てに暮らす人でも起こっている。
私の先生の母上が1990年代の初めに亡くなった。その葬儀は自宅で行った。その約10年後、21世紀になってから、今度はその先生の父上が亡くなった。その頃は、葬儀は自宅ではなく葬儀場(ホール)で行うのが当たり前になっており、先生の父上の葬儀も葬儀場で行われた。私の祖父は1970年代後半に東京都狛江市の某医大附属病院で死んだが、世田谷区烏山の自宅に「無言の帰宅」をして、そこで葬儀が行われた。その約20年後、90年代半ばに祖母があきる野市の老人ホームで死んだが、葬儀は八王子市の葬儀場で行われた。
このように、1990年代の半ば頃を境に、自宅で葬儀をするということが行わなくなった。若い人たちは自宅で葬儀をするということを知らないことになる。生身の遺体が「無言の帰宅」することを知らないことになる。「無言の帰宅」がわからないということにば、このような死或いは葬儀の変容があるのではないかと思ったのだ。
「無言の帰宅」がないと、それと結びついていた習俗、例えば神棚などの神道系のものは布で覆い隠すとか、魔除けのために遺体の布団の上に刃物を置くということも忘却されているのだろうか。

死のクリシェだと、日本の軍隊や警察の組織と結びついた「二階級特進」はさらに難解だろうか。