曖昧に耐える

承前*1

宍戸護*2「二者択一思考に社会の脆弱性 平川克美」『毎日新聞』2022年11月4日



平川克美*3へのインタヴュー。


ただ、二者択一を求める言動には、注意を払いたい。「マスクを外しているじゃないか」と監視して回る人や、「マスクをしていない人は入店お断り」といった発言だ。龍後期に飲食をすれば、感染が広がる可能性が高いのでやめましょうということは確かにあった。しかし、現在は空気の流れがよい屋外で数人が会話したり、遊んだりする際はマスクを外してもよいのではないか。(略)
ウイルスの正室や対処方法がよく分からなかった2020年春、ネット上で、医療の専門家でもないコメンテーターのような人たちが「コロナは風邪みたいなものだ」という発言を繰り返した。逆に必要以上にコロナを恐れる人がいて、社会が分断される構図があった。その後もコロナか経済かという二者択一的な思考で対立が続いてきた。

では、よく分からない問題に遭遇した時にどうしたらよいか。「この問題は分からない」という意識を受け入れて耐えていくことだ。分かりやすい回答に飛びついてはいけない。間違っているかもしれないからだ。「分からないことに耐える」ということは、他者の発言に盲従するのではなく、できるだけ多くの情報を集め、専門家の意見を尊重して自分で判断できるまで待つということだ。
戦後民主主義は意思決定のために多数決の原理を採用してきた。この原理は必然的に二者択一を迫ってくる。物事が明確ならばその選択もあるが、現実の社会が抱えている問題のほとんどは、幅広いグラデーションのある「程度」の問題だ。例えば、自然食という考え方があるが、生活の場では体に悪いものは一切食べないということにはならない。どこまで受け入れるかという程度の問題になる。
マスク着用をめぐっても、安全性を求めれば、それに応じて利便性が失われる。実際の生活に合わせて、その都度判断するしかない。実はこれが難しい。常に結果に責任が伴うからだ。例えば私が経営するカフェでは、店に何人を入れるか、マスクや検温はどうするかを判断し、感染者が出たときは私が責任を負っている。その判断は、私の人生における経験則と良識、倫理を土台とした常識に基づいている。
「コロナ禍は、誰しもが本来持つ、こうした常識がうまく育っていないという、日本社会の脆弱性を浮かび上がらせた」という。