「大阪弁」の話

中山千夏『幸子さんと私』*1から。
中山千夏は1959年9月に「上京」している(p.92)。
その「上京」直後の話。


ひとつは上京して間もなく、「名子役」出現を記事にしようと、記者がきた。ストライプの三揃えを着て、私の楽屋にあぐらをかいたそのおじさんは、役者たちによく知られているようだった。事前に母から注意を受けていたのだろうが、私はかなり緊張し、その当時の常で、たっぷり愛想を振りまきながら問いに答えた。母も二、三度質問されて(例の、芸能界に入ったキッカケなどだ)、最高にお澄ましして愛想よく答えた。おじさんは満足げに帰っていった。しかし、新聞に大きく載った記事を見て、私は憮然とした。私の言葉が大阪弁になっている。しかも、みょうちくりんな大阪弁だ。東京弁のあのおじさんが創作したに違いない。
大阪時代、私が重宝された理由のひとつは訛りがないことだった。創始者が「標準語」の権威だったことから、児童劇団はなによりも「標準語」の教育に重きを置いていて、私はその優等生だった。ラジオに初出演した時、共演のおじさん(新派の大矢市次郎)が「訛りのない子だねぇ」と頭を撫でたのが、母の自慢話になっていた。私もそれが誇りだった。改まると標準語を使った。もちろん朗読は標準語でした。大阪の小学校でもそれをやって、担任から、「中山さん、みんなと同じように読みなさい」とイヤな顔で注意されたことがある。(もっとも、こてこての関西弁だったこの担任は偏狭で、カタカナ表記を問題にした試験の答案に「ピアノ」と書いたらバツにした。彼女によれば、正解は「ピヤノ」だった。母が怒って談じ込んだが、「私がピヤノと教えたのだから、ピヤノでなければバツだ」と譲らなかったそうだ。)当然、そのインタビューにも標準語で答えた。なのに大阪弁になっている。内容もちょっと違っていて、私の自覚より、いやに積極的だった。
児童劇団と当時の風潮のおかげで、優等生の私は、訛りは汚い言葉だ、と信じ込んでもいた。だから、私が見る新聞記事の自分は、汚い言葉でべらべらしゃべる下品な少女だった。私はこうではない、あの記者はなんの恨みがあって、こんなふうに私を書いたのか、と私は思った。はたまた、私はこんなふうに見えていたのか、とも思って落胆した。つまり記事は、私には戸惑いと不快、なにかなにか罠にかかったような感覚しかもたらさなかった。(pp.117-118)
このエピソードは「自分がイヤなことを母はイヤではない、ということの気付き」(p.117)のひとつとして回想されている。(「母」は)「むしろ喜んでいるようで、以後、その記者が姿を見せると、とても愛想よく対した」(p.118)。