高橋ふみ

中島隆博『日本の近代思想を読みなおす1 哲学』*1から。
「日本初の女性哲学者」(p.205)とされる高橋ふみ(1901~1945)について。


高橋は、西田幾多郎の妹すみの次女であり、西田にとっては姪にあたる。金沢第一高等女学校を卒業後、一九二〇年に創立二年目の東京女子大学高等部に入学し、一九二三年に卒業すると、そのまま東京女子大学人文学科に入学し、英文学科に在籍していた。翌年哲学科に編入し哲学を専攻する。同期に湯浅(後に岩垂)宣子がおり、二人は石原謙(一八八二‐一九七六年、東北帝国大学教授を兼務し、後に東京女子大学学長にもなる)の指導を受けて、高橋は「プラトンイデアに就いて(パイドンを中心としたる)」、湯浅は「プロティーヌス(悪の問題を中心として)」という卒業論文を一年間で書き上げた(浅見洋『おふみさんに続け! 女性哲学者のフロンティア』、六九~七〇頁)。一九二五年に東京女子大学大学部哲学科を卒業すると、当時、女性に門戸を開いていた東北帝国大学、具体的には、一九二三年に創設された法文学部文学科に、一九二六年に入学する。そこには東京女子大学を兼務していた石原謙もいたが、論文の直接の指導教官は高橋里美*2であった。(略)
高橋里美の指導のもと提出された卒業論文は、「スピノザに於ける個物の認識に就て」であった。この論文は後に、同名で東北帝国大学文学会編『文化』(岩波書店)第一巻第五号(一九三四年)に掲載された。
この論文の中心的な問いは、個物としてのわれわれ人間が無限であり永遠である神をいかにして認識しうるのかというものであった。(後略)(pp.205-206)

一九二八年に東北帝国大学を卒業後、高橋は教職の道に入り、宮城県立女子師範学校自由学園で教えていた。しかし、哲学への情熱が冷めることはなく、一九三六年にドイツに留学し、ベルリン大学フライブルク大学で学んだ。フライブルク大学ではハイデガーの一九三九年夏学期の演習「言葉の本質について」に出席していた(『おふみさんに続け! 女性哲学者のフロンティア』、一四九頁)。
ドイツでは翻訳にも力を入れていて、東北帝国大学の恩師でもある土居光知(一八八六‐一九七九)*3の「藤村の若菜集」(一九三六年)と「万葉集」をそれぞれ一九三八年と一九三九年に翻訳出版する一方、伯父である西田幾多郎の「形而上学から見た古今東西の文化形態」を一九三九年に翻訳出版している。しかし、その後、結核に罹患し、戦争の激化もあり一九三九年十一月に帰国する。ただ、西田の翻訳は続け、一九四〇年には「真善美の合一点」(『芸術と道徳』、一九二三年所収)の翻訳を出している。その後も、『日本文化の問題』(一九四〇年)の翻訳への意欲を示していたが(『おふみさんに続け! 女性哲学者のフロンティア』、一六六~一六七頁)、病魔には勝てず、一九四五年六月に亡くなった。西田幾多郎が永眠した二週間後であった。享年四三歳、早すぎる死であった。(pp.208-209)