東北の桑原

承前*1

建畠晢、加治屋健司「針生一郎オーラル・ヒストリー 2009年2月28日」http://www.oralarthistory.org/archives/hariu_ichiro/interview_01.php


インタヴュアが東北大学時代の桑原武夫*2 について質問しているのだけど*3、針生は旧制二高の独逸語の先生の話をして、桑原についてはまともに答えていない。それで、桑原武夫って仏文学者だった筈だけどそもそもは独逸系の人だったのか? とか、ちょっと頭が混乱してしまったので、東北大学時代の桑原武夫についてちょっとネット検索してみた。
2016年4月の『東京新聞』の記事;


戦時下の東北大 文系軽視に異議 学内調査 阿部次郎、桑原武夫ら反骨示す
東京新聞(2016年4月30日)

 戦時中の一九四四年八月、東北帝国大学(現東北大)の熊谷岱蔵(たいぞう)総長が、大学の進むべき方向について教員に尋ねたアンケート結果が東北大に残っている。作家の阿部次郎教授や仏文学者の桑原武夫助教授らが、軍事中心、文系軽視の方針に異議を唱えていた。防衛省が研究資金を用意するなど再び大学と軍事が近接し、文系学部の再編も論議される現在、「学問の自由」の原点を見つめ直す史料として再評価の機運が高まる。(望月衣塑子)



 東北大学百年史を編さんしたメンバーが九七年、九十二人の教授らの直筆の回答書を大学本部の書庫で発見した。機密扱いの書類であり、戦争推進の意見もあることから、発見当時は遺族の意向に配慮して個人名を公表しなかった。


 戦時中は、武器製造のため理系研究が推奨され、文系廃止論が強かった。文系と理系で「命の格差」も生まれた。同大史料館の永田英明准教授によると四三年十二月時点で法文学部の男子学生の72・3%が入隊を課されたのに対し、医学部は1・4%など理系はほとんど徴兵されなかった。


 四四年は、学徒動員で大学が事実上、教育機能を失っており、総長のアンケートは、存亡への危機感から行われたとされる。


 大正・昭和期の学生のバイブルとされた青春小説「三太郎の日記」を執筆した法文学部の阿部教授は回答書で「あらゆる研究及び教育の継続は、時局の急迫中においても、依然として必要なり」と主張。「大東亜共栄圏の実現は圏内の人心を底から掴(つか)むことなしに期し難い」と、戦争を否定しない形で、文系の充実を訴えた。


 戦後さまざまな文化的運動で主導的な役割を担った同学部の桑原助教授も「今次大戦の帰結如何(いかん)に拘(かかわ)らず、欧米的なるものが尚当分世界に支配的勢力を振るうべきは明白なり」とし、研究対象を日本のものに限定する風潮を「国家百年の計にあらず」と批判する。


 文系学部には再び、逆風が吹き始めている。昨年文部科学省は国立大学に文系学部の廃止や転換を求めた。「文系軽視」との批判に同省は「誤解を与える表現だった」と釈明したが、八十六大学中二十六校はその後、一部課程の廃止を含む再編の意向を表明した。永田准教授は「大学の在り方は常に社会や政治との関わりの中で問われ続けてきたが、アンケートにみられる人類や社会にとって何が大切かという普遍的、長期的な視点で教育や研究の在り方を考えることが大切だ」と訴える。
http://university.main.jp/blog8/archives/2016/05/post_1183.html

菊地暁「桑原武夫の東北―その「フィールドワーク」を考える―」https://www.keio-up.co.jp/kup/sp/jinbunken/0004.html


ここで考察されるのは「フィールドワーカー」としての桑原武夫


「東北」が桑原に与えたものは意外に大きかったのではないか。たとえば、東北帝国大学での桑原の所属先は「文学部」ではなく「法文学部」であり、そのことが経済史家・中村吉治や法制史家・高柳真三らとの交流につながり、「耳学問で若干その方面の常識がつき、研究所へ移って共同研究するさい、大いに役立った」という。また、英文学者・土居光知の知遇を得たことは、「私の仙台における第一の幸運」で、「リチャーズのえらさを教えていただき」「そこから戦後「第二芸術」が生まれることに」なった。桑原が東北で得たものは、確かにいろいろありそうなのだ。

 「フィールドワーク」に話を戻そう。桑原が初めて東北の地を踏んだのは、1936年夏のこと(以前にも通過したことはある)、「遠野から早池峰山に登り、宮古、魹岬崎灯台、盛岡、秋田などをほっつき歩いたのは、柳田国男の『遠野物語』に導かれてのことであったが、同時に、フランス留学を翌春にひかえ、原日本的なものを身体で受けとめておきたいと考えた」からだという。その見聞を綴った「『遠野物語』から」(1937)は、明治末期の遠野を活写した『遠野物語』序文の密度の濃い文体に負けず劣らず、昭和初年の遠野を鮮やかに切り取っている。

 次に桑原が東北を訪れたのは、東北帝大赴任の際である。三高のフランス語の恩師・河野与一に赴任を打診された桑原は「五分間で即決」、まだ見ぬ仙台での生活に心躍らせ、この地に飛び込んだ。そもそも、敦賀での幼少期を除くと、生涯の大半を京都で過ごした桑原にとって、仙台で過ごした5年間(1943-48)はフランス留学の2年間を超え、桑原にとって人生最長の「洛外」生活である。この間の「異文化体験」は枚挙にいとまが無いが、とりわけ重要なのが、敗戦間近の1945年夏、宮城県北の栗駒山麓の僻地「文字村(もんじむら)」へ疎開したことだろう。

 疎開委員を仰せつかった桑原が、大学人というものを理解しない農民と、農民というものを理解しない大学人の間に立って奔走し困惑する有様は「文字村疎開記」(1980)に活写されている。そのドタバタぶりの詳細は割愛するとして、本稿の関心から興味深いのは、桑原の娘たちが村の小学校で経験した出来事だ。村の子は用便のときに植物の葉ですませるため、紙を使う彼の娘たちは異端視され、ボスたちに持参した紙を巻き上げられた。また、村の子たちにとって下着のズロースは学校用の「一種の晴着」であり、家に帰ると「早くズロースっ子ぬがねいか」と注意されるものだった。国定教科書の「一タバ九本ヅツノネギガ八タバアリマス。ネギハ何本アルデセウ」もそのままでは通じないため、先生が「ねぎっ子青いの知ってっぺ。九つづつたばさしたやつっこ、八つあるのじゃ。そいずでいくらあっぺな。わかるすか」と方言に翻訳して授業をするという有様だった。こうした農村生活のつぶさな見聞が、地方と生活を無視した戦後文化運動の批判へとつながっていく。「近代主義者」でありながらも「進歩的」運動の観念性を批判してやまない桑原のスタンスに、この文字村の体験も少なからず与っているのだ。

第二芸術 (講談社学術文庫)

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遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

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また、京都へ行ってからの「東北」との関わり;

京大人文研へと転任した後も、桑原はたびたび東北の地を訪れた。なかでも、最も本格的な「フィールドワーク」は1954年夏の岩手県江刈村訪問、「しろうと農村見学」(1954)の旅である。「日本のチベット」とも呼ばれた岩手県北の僻村・江刈村は、戦後、同村出身で東大の大内兵衛に学んだ経済学士・中野清見が町長となると、貧農たちとの協力のもと、徹底した農地解放を実現、貧困からの脱却をめざして革新的な協同農業を推し進めつつあった。その経過を描いた中野の『新しい村づくり』(1954新評論社)を「一読、近来まれな感動をうけた」桑原は、この地を訪れ中野ら改革の担い手たちと面会、彼らの協力の下、二週間あまりにわたって、江刈村とその周辺を見学した。

 この地においても、桑原の目と耳はあらゆる方面に研ぎ澄まされる。高度集約協同牧野で着々と共同化を実現する農民たちの「計画と希望に顔をかがやかす」姿に感動し、開田費150万円を用意できないにもかからず寺院建立に1千万円を費やす貧村の価値観に当惑し、さらには、農地改革を占領政策として非難する左派の農政論を、「ここ東北で読むかぎり「いつわりの農地解放」というリフレーンをもつ、一つのポエジーと見えよう」とその現場感覚の欠如をこき下ろす。もとより、桑原の観察とて決して完璧ではなく(そんなものはあり得ない)、その農民の協同へのロマンティックな期待は10年後の再訪で見事にひっくり返されることになるのだが、そうした限界はあるにせよ、桑原の描いた昭和20年代、伝統と近代が相克する東北農村の叙述は、今なお価値ある記録といえよう。

 そして注目すべきは、この地において桑原が、きわめて「方法論的」な調査に取り組んでいることだ。「美人観調査」である。オードリー・ヘップバーン(A)、原節子(B)、木暮実千代(C)、津島恵子(D)、乙羽信子(E)、山田五十鈴(F)、祇園の舞子(G)、と7枚のブロマイドを用意し、被験者に好きな女を順番に並べさせる。その順位を統計処理して、美人観の地域差や階層差をあぶり出そうというのだ。実は、この女優の選択には明解な意図がある。ヘップバーンを最も「西洋風・近代的」、祇園の舞妓を最も「日本風・伝統的」な女性として両端とし、中間をそのグラデュエーションとなる女優を配しているのだ。この調査、被験者となった農民には大いに歓迎され、「ベッピンしらべの先生はいつくるのか」と心待ちにされたという。



こう書くと単なる慰みのように思われるかもしれないが、実はこれには周到な意図が隠されている。政治的あるいは思想的なことは作為的要素が混入しやすいが、「異性の容貌への好みといったことは反応が直接的であり、またどう答えたところでサシサワリがないから、かえって正直なもの」を捉えられる。つまり、「美人」を切り口に「文化的無意識」を抽出しようという明解な戦略があり、さらには、趣味というものが単なる個の営みではありえず、歴史的・社会的拘束性を免れないという、ブルデューばりの社会学的認識に立脚しているのだ。じじつ、調査結果では、ヘップバーンをどうしても女性と認められない古老など、農民の美人観が明らかに「日本風・伝統的」なものに偏り、村のなかでも商業・交通の便の良いところ、また、高学歴層では「西洋風・近代的」なものへの傾斜が見られたのだ。ちなみに、この調査は、行動科学的政治学の基礎を築いたシカゴ大の政治学者ハロルド・ラスウェルより多大な関心と評価を得たという。

それから、荒木優太氏によれば、桑原武夫は東北時代(戦時下)にジョン・デューイの『経験としての藝術』を読んでいた*4