「詔勅」と「臣民」

吉田公平「井上圓了と詔勅」『satya』(東洋大学井上円了記念学術センター)49、pp.34-36、2003


詔勅」とは「天皇が発する公式文書を総称する」ものである。因みに、日本国憲法には「天皇の国事行為に関する条項はあるが詔勅の条項はない」(p.34)。
詔勅」が法的な力を有していた大日本帝国憲法下の日本人に対応する自己規定は「臣民」である;


(前略)おなじく「国民」といいながらも、『大日本帝国憲法』下にあった人たちは自らを臣民であると覚悟していた。彼らを理解するためにはこのことをしっかりと押さえることが肝心である。内村鑑三新渡戸稲造も、夏目漱石森鷗外も、吉野作造津田左右吉も、西田幾多郎和辻哲郎も、自覚においてもまぎれもなく臣民であった。わが井上圓了も例外ではない。この時期に臣民であることに異議を唱えたものは文字どおり「非国民」であった。そのように憲法に規定されていたのであり、そのように自覚し、そのように生きることを、家庭においても学校においても社会においても、教え込まれたたき込まれたから、むしろ臣民であえることに誇りを覚え、良き臣民でありたいと願いもし努力もしたのである。この臣民である国民に対して天皇が直接呼びかけた御言葉が詔勅である。国会が制定する法律を超越する根本規定ということになる。昭和十六年十二月八日に米英に宣戦を布告したのも、この戦争を終局させたのも昭和天皇のあの詔勅であった。(p.35)
井上円了*1と「詔勅」;

(前略)井上圓了は主な詔勅が発布されるたびにそれを讃仰する詩文を残しているばかりではない。さらに詔勅を解説し、その主旨を敷衍し普及を図る著作を著したりもしている。『明治徒然草』・『大正徒然草』がその好例である。ともに教育勅語軍人勅諭、戌申詔書を基調とする著作である。臣民意識などかけらもない者として最初に読んだときには文字どおりの違和感を覚えた。そして次の瞬間に、わたしたちは井上圓了とは国政が異なる状況下に成長し生きているのだということを思い知らされた次第である。これまで『大日本帝国憲法』下の知識人や作家たちの著作を読んでいたときに、どこかが違うなと覚えた、その根本素因の一つが彼らの「臣民」意識であったことを確認して、ああそうだったのかと得心した次第である。(ibid.)
編纂され・公刊された「詔勅」集;

『歴朝詔勅録』一帙、上下二巻、鉛活字排印。和装袋綴じ。上巻、巻首には御製の若の写真が二葉。例言四頁。目次七四頁。本文一七四頁。下巻、本文三一二頁。明治二十六年八月五日発行。発行所は歴朝詔勅録発行会、発行者は山田秀朝。(略)後花園天皇からすぐに孝明天皇にとび、今上天皇*2詔勅が一四〇頁に及んでいる。
詔勅集』一冊。六九八頁。編輯者は塚本哲三。発行所は有朋堂書店。大正六年九月四日発行。神武天皇より明治天皇まで。非売品とあるものの需要に応じた出版であろう。
『大日本詔勅謹解』全七冊。著者は森清人。発行所は日本精神協会。第一巻は昭和九年一月一日発行。第七巻は昭和九年七月十五日発行。歴代の重要な詔勅を六篇六巻に類従し、別に「詔勅と日本精神」の一巻を加えたもの。
『虔修大日本詔勅通解』一冊。一〇二六頁。著者は森清人。発行所は龍吟社。昭和十一年九月十日発行、昭和二十年二月二十日第四版発行。神代の天照大神から昭和時代の今上天皇までの五一一の詔勅を編輯し通解し、その歴史的背景を解説した。著者は『大日本詔勅謹解』を刊行し、矢継ぎ早に本書を刊行したことになる。著者が記す詔勅講究所(東京市目黒区三谷町一〇八番地)がいかなる機関なのかを明らかにしない。
『歴代詔勅集』一冊。辻善之助監修。序文(辻善之助)二頁。例言(編纂者森末義彰・岡山泰四)三頁。目次・図版目録五八頁。本文九七六頁、索引一五頁。発行所は目黒書店。昭和十三年十一月三日発行。創業五十周年記念発行。非売品。神代の天照大神より今上(昭和)天皇の昭和十三年十月三日の勅語までを収める。書き下し文の後に本文の原漢文に句点を施して掲載する。
『歴代詔勅全集』全八冊。著作者は三浦藤作。発行所は河出書房。昭和十五年十一月二十日第一巻発行。昭和十七年十二月二十五日第八巻発行。第七巻には「米国及び英国に対する宣戦の詔書」(昭和十六年十二月八日)が掲載されている。(後略)(p.36)