「それにもかかわらず」

プリーモ・レーヴィ*1『溺れるものと救われるもの』(竹山博英訳)の「序文」から。


(前略)この本を書くまでに、広島や長崎に恐ろしい爆弾が落とされ、ソ連強制収容所の恥ずべき実態が明らかになり、ベトナムでは無用の流血の戦いがなされ、カンボジアでは自国民の大虐殺が行われ、アルゼンチンでは多数の政治犯が行方不明になり、多くのおrとかで残虐な戦争が行われたのだが、それにもかかわらずナチの強制収容所の体制は、その量と質において、今日でも唯一のものとして存在している。いかなる時代、場所を取っても、これほどに予期不可能で複雑な現象に直面することはない。たくさんの人間の命が、これほど短期間に、技術的才覚と狂信主義と残忍さの意識的な組み合わせによって、奪われたことはなかった。いかなるものも、十六世紀に、スペイン人の征服者たちがアメリカ大陸で行った虐殺の罪を許すことはしないだろう。彼らは少なくとも六千万人のインディオの死を引き起こしたと考えられている。しかし彼らは政府の命令なしに、あるいは命令に逆らって、自分たちの考えで行動していた。また彼らは実際には、ほとんど「計画性」なしに行動していたのだが、その大罪が百年間にまたがるということで罪が薄められている。そして自分たちが意識せずに持ち込んだ疫病にも助けられていた。だがそれでも私たちは、その大虐殺が「はるか昔の出来事である」というふうに判断を下して、そのことを考えないようにしているとは言えないだろうか。(pp.22-23)