「ニュース」のない日?

川上未映子*1『あこがれ』(第二章「苺ジャムから苺をひけば」)の一節;


この六年間にはもちろんいろいろなことがあった。
わたしたちが一年生のときには日本のうえのほうですごく大きな地震が起きたし、ものすごい津波がやってきて、ものすごい人が死んで、原発が爆発して、たくさんの人たちが住めなくなった。まだ小さかったせいであんまり覚えてはいないけれど、三学期の終わりになると、授業でその映像をみたりもしている。でも、地震じゃなくてもテレビのニュースをみていれば毎日ぜったいに何かしらの事件は起きていて、とにかく何も起こらない日というものは、存在しないみたいだ。
どうして何も起こらない日はないのだろう?
ニュースで何も言うことがないような、そんな日が一日くらいあったっていいと思うのだけれど。でも、ニュースになるかならないかは、きっと本当の問題ではないのだ。たとえばニュースというものがこの世界からすっかり消えてしまったとしても、どこかで何かが起きているのだし、誰も知らなくてもいつだってどこかで何かが起こっていて、じっさいはそっちのほうが多いはずなのだ。こんなにたくさんの人がいるのだもの。だいたい、日本の人口ってどれくらいだったっけ。二億人だっけ。そこまでいってないのだっけ。でも億って言われてもそれがいったいどれだけすごいのか、ちゃんと想像することができない。(pp.113-114)
「わたしたち」は小学6年生。ということは、311の5年後で、小説における現在は2016年の筈なのだけど、この小説は2015年に上梓されている*2。つまり、近未来として設定されていたことになる。