「引力」の話

白岩玄*1「自信を奪われ、尊厳も手放しかけた……25歳で経験した苦く痛い“大人の恋”」http://www.asahi.com/and_M/articles/SDI2018042575211.html


白岩さんは25歳で初めて本格的な恋愛を経験したという。


恋の厄介なところは、引力が発生するところにある。相手の存在そのものに引力が働いて、あらゆる言動に絶えず意識を引っ張られてしまう。そうなると、精神的にまっすぐ立っていることができなくなる。まるで首輪をつけられたみたいに心がぐいぐい引っ張られ、自分の考えや気持ちを貫くのが難しくなる。相手のすることに違和感を覚えていても我慢してしまうし、ひどい場合だと、絶対に守らなければならない自分の尊厳すら手放そうとしてしまう。

大人になって初めて恋をしたぼくは、この引力にかなり苦しめられた。正直、恋をするまでは、恋愛で自分を見失う人のことを下に見ていたのだが、いざ自分が恋に落ちると、本当に自制心が働かなくなる。


あぁ、みんなは、こんなにも心が乱されるものに耐えていたのか。ぼくは、それまでバカにしていた人たちに心から頭を下げたくなった。そして同時に思ったのだ。この引力に苦しみながら毎日を生きている人は、みんな偉い。自信を奪われ、自分に価値を見いだせないまま、誰かを振り向かせようと努力し続けているのだから、これはもう、人として尊いと言ってもいい。

恋は、大抵、負け戦をしているようなものだ。人間関係に勝ち負けをつけるのはおかしいのかもしれないけれど、ぼくは自分が報われない恋をして以来、そう考えるようになったし、もっと言えば、恋愛で負けるのはちっとも悪いものじゃないと思うようになった。

もちろんつらいのは事実だし、今まさに恋をしている人たちからすれば、負けているのは最低な気分だろうが、じゃあ逆に、自分が勝っている恋愛とやらにどれだけの価値があるだろう?

よく、恋愛テクニックで、「こうすれば優位に立てる!」などと説いているものがあるけれど、個人的には、優位に立った時点で、それは恋愛ではないのではないかと思っている。

優位に立つということは、相手を支配しているということで、そんな「他人を一段下に置いて自分を愛させるような奴」は、人間的にしょうもないと言わざるをえない。

恋愛は負けて(相手を見上げて)なんぼだし、もし負けている意識がないのだとしたら、それはただの自己愛か、もしくは、もっとおだやかで対等な「お付き合い」と呼び方を改めるべきなんじゃないかという気がする。

重要なのは、気がついたら相手の〈引力圏〉に入っていたという経験だろう。したいとかしたくないという問題ではなく、「恋」は「落ちる」もの*2。そこから逃れ出るためには〈世捨て〉とか〈出家〉といった社会的・文化的仕掛けが必要となる。瀬戸内寂聴さんの出家が井上光晴との不倫関係の清算のためだったというのは非常に納得できる。この白岩さんの言説は、恋愛経験者(サヴァイヴァー)にとっては、古傷がひりひりと痛み出すという仕方で諒解可能であろう。また他方で、このような痛みとは無関係な立場で、お気楽なナンパ言説や非モテ言説が紡がれ続けることになる。
(以前にも書いたように)白岩さんがどういう小説を書いているのかは失礼ながら知らないのだけど、ここ数年の間に読んだ、強烈な「恋に落ちる」経験を表現した小説というと、村上春樹スプートニクの恋人*3川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』*4だろうか。
スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

ところで、清水真木『忘れられた哲学者』*5から、土田杏村の『恋愛論』(1929)の紹介をメモしておく;

(前略)恋愛をめぐる土田の立場の最終的、包括的な表現としての位置を占める。
この著作において、土田は、恋愛を、「性欲を素材とし、それのイデエを追求する文化活動」として規定する。そして、この規定から明らかなように、土田の恋愛論とは、恋愛をめぐる感傷的な文学的なエッセーではなく、文化価値としての「恋愛価値」の成立根拠を明らかにする哲学的な試みに他ならない。土田は、これを「エロティイク」と名づける。
北?吉(一八八五〜一九六一年、哲学者、政治家、北一輝の弟)、倉田百三、田中玉堂などの恋愛論を吟味しながら、土田は、恋愛価値が独立の価値であること、主観的で個人的なものではなく、客観的で社会的なものであることを強調し、さらに、恋愛の「ユウトピア」的な形態、人格のみにもとづく恋愛としての「自由恋愛」の可能性を問う。この「自由恋愛」の概念は、ウィリアム・ゴドウィン(一七五六〜一八三六年、イギリスの評論家)から借用したものである。(p.143)
北一輝*6の弟というのが非常に気になるのだけれど、清水氏によれば、土田はこれ以外にも「恋愛」論として、『恋愛のユウトピア』(1924)、『恋愛の諸問題』(1925)を上梓している(ibid.)。