「同じ世代の人の死」(村上春樹)

村上春樹川上未映子『みみずくは黄昏に飛び立つ』の中で「死」がトピックになっている(第4章「たとえ紙がなくなっても、人は語り継ぐ」、p.385ff.)。
村上春樹氏の発言;


(前略)やっぱり同じ世代の人の死というのはまったく違う。これまで僕が経験してきた、年老いて老人になって死んでいく、言うなればクロノロジカルな死とは、まったく違う種類のものですよね。tくに年若い人の場合には、非常に観念的な色合いが濃いというか、多くの場合、それはあとに生々しい傷を残していきます。生木が無理に引き裂かれたような。(p.388)
年を取るということは「同じ世代の人の死」を見聞きすることが増えるということだろう。そうして、「死」に馴染まされていくのだろうか。
私が「同じ世代の人の死」というのを強く意識し始めたのは、柔道家の斎藤仁*1や俳優の今井雅之*2の訃報を知った頃からだろうか。そういえば、私よりも数か月年長の勝谷誠彦*3の死を拙blogでは取り上げていないのだった。「同じ世代の人の死」ということで、ショックはかなり強かった。勝谷の死の前後、けっこう長期に亙ってblogの更新を停止しているのだけど、多分勝谷の死のショックということもその理由のひとつにはあったと思う。
それでも生きている限り、「死」には迫れないという川上さんの発言;

わたしたちは常に傍観者ですよね、死に関しては。自分がそれを経験することは、生きている限り絶対にありません。すべての人が今、刻一刻と老いているわけなんですが、常に今が古いと同時に――矛盾した言い方になるけど、常に今は新しいというか、「今」しか存在しないんです(後略)(p.389)