ウチとソト(マスク篇)

大貫恵美子『日本人の病気観』*1から。
第2章「文化的病原菌(日本人のばい菌観)」では、「日常衛生習慣というものは、いかなる文化においても最も基本的な、「何が清浄で何が穢れているか」という概念に根ざしているものである」として(p.29)、様々な事例が考察されている。


日本の子どもにとって、外から帰宅したら靴を脱ぎ、手を洗い、場合によってはうがいをするということは、初期の社会化訓練の一環として非常に大事な事柄である。外に出たらばい菌がたくさんいるので、帰ってきたらまず靴を脱いで、家の中によごれが入らないようにし、次に手や喉についてきたばい菌を水で洗い落とすのだと、われわれは説明するわけである。この際に使われるばい菌という用語は比較的歴史の浅いもので、西洋から病原菌理論が輸入されて後、使われだしたのだが、われわれは既に、視覚的にも拡大されたバクテリアのイメージを学校の教材映画などから得て、心に植えつけている。だが、このような衛生週間の背後にあるのは、「外」の空間と汚れ――ばい菌として表現されるような――の等式化である。ばい菌とは遍在的な外部なのだ。そこで自ら(内部)を家の中で清く健康に保つため、汚れを落とすことが必要とされる。内部と清浄、外部と汚濁という象徴的図式が成り立っている。
しかし、ばい菌のいる「外」とは人間の居住地外のことを指すわけではなく、むしろ街路、車中、商店等がその範疇に入る。「ひとごみ」と簡潔に表現されているように、ばい菌は雑踏の中、群衆の中、あるいは人々が元いたところといった、清潔である自己と対照される場所において拾われるとされており、つまり「外」とは他人の汚れが集中している場所のことを指す。究極的には、「汚れ」は他人の排泄物のことである。したがって、「外」といっても、社会的空間あるいは、文化的領域内のことで、文化と対峙する自然のことを意味するのではない。本書でも、「外」とは社会の境界外のことではなく、汚れやばい菌が集中しているとされる社会の「周縁」のことを指すことにする。(pp.29-30)


外(汚濁)/内(清浄)


という図式。これを基礎に、「マスク」が考察される;


「外」は汚染されているという考えから、多くの日本人はかつて、また今日でも比較的少なくなったとはいえ、外出時に(特に冬には)マスクをかける習慣をもっている。「科学的」な理由としては、外気に含まれる病原菌を吸い込まれないためとされている。あるいは、外の寒気からのどや鼻の粘膜を守るためといわれる。家を出るときマスクをかけ忘れた人のためには、ちゃんと駅の売店で備えている。戦後、マスクの効果について新聞紙上で議論が闘わされたことがあり、自分で吐き出したばい菌をまた吸い込むことになるので、かえって健康に悪いという記事も載ったが、そのためにマスクの使用が途絶えたということはない。その後、病原菌を通しにくい新案の布で作ったマスクもできたと、その科学的実験の成果が新聞の健康欄に載ったこともある(朝日新聞、昭和五三年一二月一〇日付)。
昭和四三年、ウィスコンシン大学客員教授として来訪した世界的に有名な日本人科学者から、マスクをかけるとアメリカ人がまじまじと見るが……、と尋ねられたことがある。私の知る範囲では、ふつうはマスクは手術室の外科医等、および伝染性病患者自身に限られている。日本人が他人のばい菌を吸い込むことを避けるためにマスクをかけるのに対し、アメリカ人は自らのばい菌を他人に向けて散らさないために使用する、という相違が見られる。なかんずく、日本人のマスクの使用は、「汚れ」は外にあるという文化的規範を前提にしているといえよう。(pp.35-36)
新型コロナウィルス以前にも、日本人と「マスク」との相性の良さは注目されていたことがあった*2。しかし、その論調は、「マスク依存症」は最近のことであり、議論のフォーカスも「マスク」のまさに仮面としての側面、「対人恐怖」を巡ってのことだった。「マスク」が守るべく期待されていたのは、「他人のばい菌」ならぬ他人の視線なのだった。
因みに、『日本人の病気観』が上梓されたのは1985年。