或る建築家の話

湯川豊*1「西洋一辺倒にあらがう官吏建築家」『毎日新聞』2021年11月20日


「妻木頼黄という安政六(一八五九)年生まれの明治の建築家」を主人公にした、木内昇『剛心』という歴史小説の書評。


家は禄高千石の旗本だが、三歳のときに父親を失い、苦労のうちに育ったらしい。工部大学校(東京帝国大学工学部)を三年で中退、米国コーネル大学造家学科三年に編入、卒業して明治十八年に帰国。翌年から内閣直属の臨時建築局に勤務した。以後、臨時建築局は内務省、大蔵省と管轄が転々と移るが、妻木は一貫して官吏としての建築家であり続けた。
コーネル大学へのきわどいともいえる留学は、工部大学校のコンドル教授への反感があるらしい。維新後の、新しい東京づくりが、西洋建築一辺倒であることへの反発である。「江戸の美しい町並みを惜しむ」という切実な思いが、この旗本の息子にはあって、流行とは 別の道を歩こうとしているのだ。

妻木の仕事は、東京府庁、大審院日本興業銀行本店などの建築、日本橋の装飾意匠設計などたくさんあるが、愛妻のミナを連れてできあがった大審院を見に行く場面がじつにいい。ミナが江戸の町がお伽噺のようになってしまった、というと、「いやお伽噺にはしない。僕がそうはさせない」と妻木が応じる。江戸の町に息づいたものを踏みにじるような東京づくりを心底嫌っているのである。