東の人

倉田陶子「「民主主義の本質」米国で知る」『毎日新聞』2022年9月4日


80歳になった高石ともや*1へのインタヴュー記事。
そもそも高石ともやは〈東日本の人〉だった。


一九四一年に北海道で生まれ、立教大入学を機に上京。関西との縁が生まれたのは66年、「大学6年生」の高石さんは新潟県のスキー場で3カ月ほどアルバイトをしていた。「最後のお客さんが大阪の若夫婦で、帰りの車に乗せてもらうことにしたんです。通天閣が見える辺りで降ろしてもらいました」。ラーメンの屋台などの仕事をしながら、学生や労働者の前で歌い始めた。
この頃、ベトナム反戦市民運動「べ平連」の中心メンバーだった小田実さんや鶴見俊輔さん、戦時下のベトナムを取材した作家の開高健さんらと出合った。「俺たちの世代には自分たちの歌がない。君たちは自分たちの歌を持ちなさい」と言われ、歌が持つ力に気づいた。「今の世の中のことをそのまま歌っていけばいいんだと思いました」

68年にリリースした「受験生ブルース」がヒット作になる中、高石さんは「フォークソングに疲れた」と歌手を引退する。そして70年1月、米カリフォルニア大学で歴史を教えていた山口光朔さん*2の紹介で、カリフォルニア州バークレー市の牧師の家に身を寄せた。アメリカの学生運動発祥の地とされるこの街で、高石さんは大人だけでなく幼い子どもにまで浸透する「民主主義の本質」を知ることになる。
バークリーでは前年、大学の空き地に「市民のための公園」を建設する機運が盛り上がったが、数千人のデモ隊と警察や州兵が衝突。警察による発砲で死傷者が出た。「デモに参加した女性から『銃を持った州兵に、私は石ではなく花を投げたのよ』と教えてもらいました。また、朝食のテーブルに着くと、牧師の小学生の娘がニクソン大統領(当時)の演説について論じていることもあった。「これは日本の学校で習った民主主義とはちょっと違うぞと、人生観がすっかり変わりました」