森有正/須賀敦子(メモ)

須賀敦子を読む (新潮文庫)

須賀敦子を読む (新潮文庫)

湯川豊須賀敦子を読む』第2章「霧の向こうの「失われた時」」*1に、森有正に言及した箇所あり。世代も違い、一方は伊太利他方は仏蘭西ということはあれど、須賀敦子と同様に〈ヨーロッパ〉を強烈に生きた知識人として森有正を比較の対象として召喚することは不自然ではない。
曰く、


森有正は第二次大戦後間もない一九五〇年にパリに留学し、そのままパリに居座るようなかたちで住みつづけた。ヨーロッパ体験が森の精神に激震を与えたからである。五七年刊行の『バビロンの流れのほとりにて』に始まる彼の哲学的エッセイは、パリでの強烈な異国体験を基礎にしている。
森有正須賀敦子より十八歳ほど年上だし、東京大学助教授としてパリに留学したというふうにキャリアも大きく異なる。しかし書くものの根底に異国体験が動かしがたく横たわっている点、二人ともエッセイと呼ばれる散文でその体験がもたらしたものを表現したという点では、共通しているといっていい。
森にはフランスでの心をゆるがすような体験、たとえばノートル・ダム体験があった。その体験が実際にどんなものであったかとなると伝わってきにくいうらみがあるのだが、ともかくも体験の意味を執拗に考えつづけようとした。
感覚を通して受容される体験が、その意味を考えつづける精神の働きによって「経験」というかけがいのないものに変化し、そこから血のかよった思想が形成されてゆく、その生成の過程をとらえようとした試みであり、したがって一種の認識論である。
(略)森のエッセイは思考することの息づかいを読み手に伝えようとするユニークさはあるけれど、いつまでたっても息づかいしか伝わってこないうらみがある。精神の働きを追いかけてゆくと、それが純粋な追究であればあるほど、トートロジーに陥りやすい。そこから逃れるためだろうか、森の思索エッセイは後年になると、認識論からきまじめな人生論に傾いてゆく気配を示した。
同じく異国体験から生まれたものながら、須賀敦子のエッセイは対蹠的な表情をもっている。須賀のエッセイは人や事物、あるいは本の世界を語るときでも、具体的な物語をつくっていって、抽象的な思索に傾くのを拒んでいる。経験した世界を生まのままに再現するという強い意志に支えられている、といい換えてもよい。須賀のエッセイに人生はあっても人生論はない。
須賀のイタリア体験は、エッセイに書かれるときにつねに具体的であり、その具体的な再現のなかで須賀の個人的な感受性が生き生きと働いていた。かんたんに理屈をつけることで理解するという方法をとらない。つきあった人間を語るときはもちろんのこと、文学や絵画、建築などに話が及ぶときでも、等身大の須賀の目と精神が働いている。須賀はエッセイのなかで多くのばあい語り手の立ち場を離れず、「私」を振り回すことをひかえている。にもかかわらず、須賀独自の感受性がとらえる対象のなかに刻印されている。
エッセイを書くときのこうした姿勢は、須賀が若い頃にフランスではなく、イタリアを選んだこととも関連があるだろう。(pp.66-68)
「若い頃にフランスではなく、イタリアを選んだこととも関連がある」かどうかはわからないけれど、湯川氏がこの後で引用する『ユルスナールの靴』の

記憶のなかのカテドラルを追うようにして、精神性、ということばが胸に浮かんだ。精神と肉体というときの、精神だ。パリのノートルダムも、シャルトルも、精神性に支えられているのではないか。生涯のある時期に私がフランスを棄ててイタリアをえらんだ理由のひとつは、たしかにフランスの精神性がどこかうるさく感じていたからだった。
というパッセージを読むと、森有正的なものと須賀敦子的なものとの両立は難しいなとも思ってしまう。
ユルスナールの靴 (河出文庫)

ユルスナールの靴 (河出文庫)

さて森有正を熱中して読んだという経験はない。昔は取り敢えずポストモダン青年だったので、読む気にならなかったということはある。読んだことがあるのは、講談社現代新書に入っていた『生きることと考えること』、『いかに生きるか』、それから『新しいものと古いもの』という講演集、小田実*2との対談本『人間の原理を求めて』くらいだと思う。たしか『人間の原理を求めて』だったと思うけど(ほかのテクストかも知れない)、古代希臘について、亜細亜的な不純物を削ぎ落として純化するという仕方で自らを〈ヨーロッパ〉へと生成させていったと目的論的に語っているところがあって、おいおい! と思ったのだった。
生きることと考えること (講談社現代新書)

生きることと考えること (講談社現代新書)

いかに生きるか (講談社現代新書)

いかに生きるか (講談社現代新書)