こんがらがって

船津衛「認識する私」*1(in 井上俊、船津衛編『自己と他者の社会学』、pp.3-20)


第2節「認識する「私」の不在」。


現代において、人々は「私」を認識することが困難な状態になってきている。多くの人々が「自分は何だかよくわからない」という「アイデンティティの喪失」を経験するようになっている。
そこから、自分を問い詰め、「自分には何もないのだ」と「自己否定」に走り、自傷行為や自殺を企てたりする。あるいは、反対に、自分の全面肯定、つまり、「自分は絶対であり、他の人はすべてだめだ」と思い込み、それが「他者否定」を行い、暴力行為や殺人を引き起こしてしまうようになる。(p.9)
ここで語られているのは、「現代」における「多くの人々」、つまり社会の成員の問題である。
さて、この「認識する「私」の不在」では、その次に、ウィリアム・ジェームズやジョージ・ハーバート・ミードが参照され、「認識する」「主我(I)」と「認識される」「客我(me)」という概念が紹介される(p.10ff.)。

「主我」は人間の経験において直接的にとらえることができない。それは姿を現したのちではじめて知りうるものなる。つまり、自我は常に「客我」として現れる。そして、「主我」は「客我」を通じて間接的に知られるものである。
したがって、ここから、「主我」はいったい何であるのか不明となる。それは「客我」とどう違うのか、「主我」の存在価値は何であるのか。「主我」概念は本当に必要なのかとさえいわれる*2。そして、「主我」概念の内容については正面から問われることが少なくなり、概念自体が表舞台から次第に姿を消してきている。
このように、概念の曖昧さによって、「主我」自体が放棄され、さらには消滅しつつある。認識される客体としての「私」に比べ、認識する主体としての「私」はあまり取り上げられなくなり、その存在自体が希薄化されてきている。すなわち、認識する「私」の不在がもたらされている。この認識する「私」の不在が「アイデンティティの喪失」を生み出すことにもなっている。(pp.11-12)
ここで語られているのは、実際に現代社会を生きる人間(社会の成員)のことではなく、現代社会を観察する社会学者或いは社会理論家の話だろう。「認識する「私」の不在」というのは、現実の社会内に存在しているのか否かということではなく、社会学の世界では最近「主我」というのは流行らなくなっているよね、という話である*3。しかし、ここで、話は社会学業界の内部話から、現実社会の社会問題の話に戻ってしまうのだ。眩暈する感覚。社会学において「主我」「 概念自体が表舞台から次第に姿を消してきている」ことが、現代人を悩ます「「アイデンティティの喪失」を生み出す」というのだろうか? 或いは、社会学者が「主我」をちゃんと語るようになれば、「アイデンティティの喪失」という社会問題は解決するというのだろうか? 全然よくわからない。

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/05/29/083203 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/06/22/143920

*2:誰によって?

*3:そのことの事実性における真偽の問題は、ここでは問わない。