黒澤明は間違っていた!

安冨歩*1「やすとみ歩はなぜ馬で選挙をするのか?」http://anmintei.blog.fc2.com/blog-entry-1078.html


昨年の記事だけど、それはともかくとして、


馬は個体識別が苦手である。それゆえ誰が乗っても、ちゃんと乗れば乗せてくれるし、「馬泥棒」が簡単なのもそのためである。「飼い主」という認識がない。
 とはいえ馬は高い知能と感受性を持っている。彼らは、自分の目の前の行為に反応する。それゆえ非常に、寛容であり、どんなに間違ったひどい対応をしたとしても、その直後に正しい対応をすれば、その前のことは関係なく、正しい対応を返してくれる。
 これに対して人間は、個体識別に深く依存する動物である。我々の大脳がこんなにも発達した理由のひとつは、個体識別し、その履歴を記憶するためだといってよかろう。
 しかし、人類は大きな社会を形成するようになった。都市においては個体識別は役に立たなくなっていく。東京の街を歩けば、知っている人と出会うことは、まずない。こうして個体識別が機能しなくなる。我々の社会の抱える問題の根源のひとつは、このことにある、と私は考えている。
そうなんだ! だとすると、黒澤明の『影武者』*2のオチ、女(愛人)は騙せても愛馬は騙せなかったというのは間違い、ということになる。たんに「影武者」の乗馬技術が低かったからにすぎない。
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また、

 私は『論語』の思想を研究しているが、その中核である「礼」という概念は、馬のコミュニケーションを参考にしているのではないか、と考えている。「礼」を、個体識別に依存するのではなく、人と人とが出会った場面における、適切なコミュニケーションの作法の交換を社会の基盤としよう、という思想、ある振る舞いに対して、適切な振る舞いで応え、その応答で社会を構成する、という考え方だと見ている。これは、馬の群の形成や、あるいは、馬と人との関係の形成のあり方と、よく似ている。『史記』によれば孔子の最初の仕事は牧場長であり、長じては多くの馬を飼って大切にしていたことが『論語』からも伺える。
 これに対して法家は、事前に決定された規則で合理的に処理しようと提案した。現代社会は極端な法家アプローチを採用している、と見ることができる。そしてそれが、我々の社会を記号化し、コミュニケーション不全を引き起こしている、と私は見ている。
 この状況からの離脱には、儒家的な礼の復活が有効であるが、残念ながら、我々現代人は、その身体的基盤を既に喪失しているように私には思われる。
という部分もコピーしておく。
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