「ワレワレ」の自明化

船津衛「認識する私」*1(in 井上俊、船津衛編『自己と他者の社会学』、pp.3-20)


曰く、


「私」というものは、「私」によって認識されることによってはじめて現れてくる。そこには、認識する「私」の存在が常に前提とされる。つまり、認識主体としての「私」なしには、認識客体としての「私」は存在しえない。そして、認識する「私」の変化に伴って、認識される「私」も変化する。
この認識する主体としての「私」は、他者との関係において社会的に存在しており、そのにんしきは社会的に形成されている。認識客体としての「私」は、他者によって認識される「私」を認識する主体としての「私」を通じて現れてくる。
すなわち、「ワレ思う、ゆえにワレあり」(R. デカルト)というよりも、「ワレワレ思う、ゆえにワレあり」(C. H. クーリー)ということになる。(p.4)
2番目のパラグラフと3番目のパラグラフの間には飛躍がある。「ワレワレ」の存立が問われないで、いきなり「ワレワレ」が存在することになっている。「私」(「ワレ」)と「他者」がいれば、「 ワレワレ」は自動的に成立するのだろうか。「ワレワレ」は如何にして成立するのか。