アイデンティティからの

親子ストレス―少子社会の「育ちと育て」を考える (平凡社新書)

親子ストレス―少子社会の「育ちと育て」を考える (平凡社新書)

まだ20世紀の本ではあるけど、汐見稔幸『親子ストレス』から。


しかし、アイデンティティを形成するということは、別の見方をすれば、子どもの中に早いうちから状況に左右されない自分=主体を形成することであるから、ときに自我の中に硬い鋳型を形成することにつながってしまう。それはたぶんに当該社会における支配的な価値規範を内面化し、それに同一化することに疑いを抱かない自我を形成することに連動する。社会の支配的な価値世界に閉じ込められてしまうのである。そのために社会変動がより一層激しくなってくる社会では、逆に早期にアイデンティティを形成しようとすることが、社会の変動への不適応を引き起こす原因になる。(略)アダルト・チルドレン*1の人たちは、そうした育ち方をしたひとつの典型といってよかった。
そもそも近代国家は、フーコーがいうように、特殊な規律・権力などによって、自らの構成員にふさわしい自我形成を強制しようとする。アイデンティティの形成というのは、変動する社会と多様化する人間関係の中で、自己を失わずに、自分が自分の主人公であろうとする感覚を得ようとする努力の謂いであるが、結果として、この強制してくる自我形成圧力に同一化していくことになることも多い。フーコーが主体化(Subject)を従属化(Subject to)と同一視したのはそのためである。
そう考えると、今のように社会の変動速度が加速化し、かつ「大きな物語」(リオタール)が崩壊して人々を領導する普遍的な理念が見いだせなくなっている状況では、あまり早くから「状況に動じない自分」の部分を形成することを避けるほうが、むしろ社会から距離をとる上手な方法ではないかということになるだろう。これが世にいう「アイデンティティからの解放」ということの意味である。(後略)(pp.195-196)

(前略)「アイデンティティからの解放」は、正確には、アイデンティティの再編成、あるいは脱構築というべきなのだ。人間はいかなる社会においても、その社会の中でたしかな居場所を確保していこうとする限り、ひとつのアイデンティティを拒否しても別のアイデンティティを必要とする。それを求める過程は、アイデンティティを近代的概念から解放していく過程と考えてよいように思う。(pp.198-199)
そもそも日本社会の主流の価値観において、確固たる「自我」とか「アイデンティティ」とかの「形成」が要請されているのかどうか、森常治『日本人=〈殻なし卵〉の自我像』という本があったけど、先ずは疑っておくべきべきだろう。先日「体罰」に言及したのだが*2、大人の気まぐれな「体罰」に晒されながら育つ子どもは、成長した時に、「状況に左右されない」原理で以て自らの振る舞いを律していくことができなくなるのではなかいか、力の強いものを〈忖度〉*3することしかできなくなるのではないかと、思ったのだが、それは日本社会においては却って適合的なのかも知れないと思った。何が言いたいのかといえば、「アイデンティティからの解放」といっても、そのことによって忖度だの空気だのに捕縛されてしまうリスクはかなり高いだろうということだ。
日本人=〈殻なし卵〉の自我像 (講談社現代新書)

日本人=〈殻なし卵〉の自我像 (講談社現代新書)