「宗教画」としての

辻惟雄*1「相國寺と伊藤若冲 導いてのち救われて」(in 澁澤龍彦ほか『若冲河出文庫、pp.17-22)


伊藤若冲*2の「写生」を巡って;


「写生」といえば若冲と同じ時代、同じ京都で活躍していた丸山応挙*3がその本家で、若冲は応挙を真似たといわれるかもしれない。だが、若冲の写生には、応挙とは別に、大典の指導があったと思われる。それに、同じ写生といっても、応挙のそれと若冲との間には大きな違いがある。「外形」の写生に習熟すれば、「気韻生動」はおのずから備わるものだ、という応挙の写生を「客観の写生」というなら、若冲の写生はいわば「主観の写生」である。常人とはいくぶん異なるみずからの眼――内面の心に連動した眼――が写し出した外界の姿なのだ。
応挙が描く主題が山水、人物、花鳥と幅広さを誇るのに対し、若冲のレパートリーはほとんど花鳥に限られている。人とのつきあいが苦手で、動物や植物を終世の友とした若冲らしい主題の片寄りであり、彩色花鳥画「動物綵絵」三十編は、その若冲がかれの四十歳代にあたる約十年の歳月を費やして完成させ、相國寺に寄進した代表作である。(p.19)

若冲五十歳の年、かれはそれまでできた二十四編に「釈迦三尊像」を加えて相國寺に寄進した。翌年、ある重要な法会の折、相國寺方丈の中央の部屋の正面に「釈迦三尊像」が掛けられ、左右に「動物綵絵」十二幅が配されたという記録がある。ここからいえるように、「動物綵絵」は一種の宗教画であった。「草木国土悉皆成仏」つまり、この世に存在する一切のものは、生命を持つもの持たないものも、すべて仏である、といういわばアニミズムの思想*4にもとづいてこの連作は描かれたのである。このような企てを発案し、政策を続ける若冲を絶えず励まし、完成に導いたのは大典であったと思われる。この年若冲は、みずからの寿蔵(生前の墓)を相國寺に建て、大典がそのために銘文を描いた。「動物綵絵」はその後も描き続けられ、数年後には三十幅になった。(p.20)