「科学技術」(山本義隆)

山本義隆『私の1960年代』*1から。「科学」と「技術」を巡って。


日本では、近代科学つまり西欧の科学は、「科学技術」として、つまり技術と一体のものとして移殖されたことに、その第一の特徴を有しています。「科学と技術」という言葉にかわって有用な「科学技術」という言葉が正式に採用されたのは一九四〇年だそうですが*2、それ以前から実質的に使われていました。野家啓一の書によると、「科学技術」という言葉は日本にしかなく、英語ではあくまで”science and technology”つまり「科学と技術」でしかないのだそうです*3
科学と技術は、もともと別物でした。たとえば製鉄の技術は古代からあります。しかしそれは長年の経験の蓄積と度重なる試行錯誤によって編み出されたもので、しばしば魔術的操作と見られてきました。製鉄とは鉄鉱石中の酸化鉄を炭素のような酸と化合しやすい物質によって還元することであるというような理論的根拠が与えられたのは、ずっと後のことです。梃子や滑車をもちいた道具や機械は古くから使われていましたが、梃子や滑車を使えばどうして小さな力で重いものを持ち上げられるのか、その正確な理由が判明したのも近代になってからです。このように技術というものは、もともと科学とは無関係に、経験主義的に作りだされたのです。
西欧においては、科学と技術は別物であっただけではなく、価値に差がつけられていました。西欧中世技術史の研究者リン・ホワイト・ジュニアの書には「科学は伝統的にその目的において貴族的、思弁的、知的であった。技術は下層階級のもので、経験的、行動志向的であった」とあます*4。つまり西欧諸国では、自然科学は、natural philosophyやNaturwissenschaftと呼ばれていたように、哲学であり思想として、技術者や職人には無縁のアカデミズムの世界で営まれていたのです。他方で、技術について言いますと、それは精神労働と肉体労働の対比で言うと後者に属し、プラトンが「市民は誰一人として、職人の仕事に従事してはならない」と言ったように*5、伝統的に知識人が手を染めてはならないものとされていたのです。
しかし西欧においても一六世紀には、技術者や職人による自然への働きかけの仕方、あるいは商人による商品や資本の管理の方式が、自然の認識にとっても有効であるということが明らかになってゆき、一部の哲学者たちはそのことに目を向けるようになり、「一六世紀文化革命」とも言うべき変化が生まれます。その結果として一七世紀には、自然とその新しい見方、自然とその新しい関わり方を身につけた知識人によって科学革命が成し遂げられ、それまでの定性的で論証的な自然学にかわる定量的で実証的な新しい自然学として物理学が形成されてゆきます。そして一八世紀の啓蒙主義の動きのなかで、一七世紀物理学にいまなおまつわりついていた神学的残渣が洗い落とされ、それが合理的な体系として再構成されてゆきます。そしてさらには一八世紀後半から一九世紀にかけて、一方で物理学の前線が熱学や電磁気学に広がってゆくとともに、他方で「化学革命」の展開――近代化学の誕生――を見ることになり、今度は逆に、科学のその知見が技術の改良や開発にとってきわめて有効なことが明らかになってゆきます。こうして一九世紀の中期には、科学に基礎づけられた技術、あるいは科学から生み出された技術としての「科学技術」が西欧に誕生します。(pp.168-170)
「科学技術」は日本だけでなく中国語圏にも(多くの場合「科技」というさらに縮約されたかたちで)存在する*6。問題は何時まで遡れるのかということ。
また、山本氏の論は「物理学」と「化学」に偏っているところがある。天文学や生物学に定位すれば、「科学」と「技術」の関係を巡っては、また別様の光景が見えてくる筈。

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/02/14/141053 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/02/20/110104 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/02/27/150439

*2:典拠として、鈴木淳『科学技術政策』と最首悟『「痞」という病いからの』が指示されている。

*3:『科学哲学への招待』。

*4:『機械と神』。

*5:『法律』。

*6:See https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/12/12/110237