山本義隆『私の1960年代』*1から。
1960年代の「理工系ブーム」を考える場合、蘇聯の影響、所謂「スプートニク・ショック」を無視することはできない。蘇聯は1957年に世界初の人工衛星「スプートニク1号」打上げに成功し、1961年にはガガーリン少佐を載せた、世界初の有人衛星「ボストーク1号」の打上げを成功させ、1963年には世界初の女性宇宙飛行士テレシコワを載せた「ボストーク6号」を打ち上げた。蘇聯はこのように「宇宙開発」の先端的成果を世界に見せつけ、西側諸国の対抗心を刺戟した(p.29ff.)。
そういう状況の中で、21世紀の人間が聞くと驚いてしまうのは、その当時の露西亜語の力である。蘇聯は、科学技術や軍事技術だけでなく、所謂ソフト・パワーにおいても優位に立とうとしていた。
蘇聯の「科学」といえば、世紀のトンデモ理論、ルイセンコの遺伝学が学界を席捲したのはさらに前だろうか*3。
ソ連の人工衛星打ち上げが民生面での犠牲のもとにかなり無理を重ねておこなわれた政治的なショウであるということが明らかになるのはもう少し後のことで、当時スミルノフの『高等数学教程』やシュポルスキーの『原子物理学』、さらにはランダウ=リフシャツの『理論物理学教程』といったソ連の数学や物理学の教科書がつぎつぎ翻訳され、私たち理科系の学生はたいがいそれらを読んでいました。それだけではありません。その当時、東大の教養学部では正規のロシア語の授業はなかったのですが、物理学者の玉木英彦教授が理科系の学生にむけておこなったロシア語講座は、大教室が満員になるくらいの盛況だったのを覚えています。今ではちょっと想像つかないことです。
ランダウ=リフシャツの『理論物理学教程』のうち、名著の評判の高い『場の古典論』は一九五九年に廣重徹と恒藤敏彦により、『力学』は一九六〇年に廣重徹と水戸巌により、その訳者・廣重の一九六〇年の書には「ソヴェトの科学・技術の最近のいちじるしい発展のかげに、厚みのある科学教育やおびただしい科学啓蒙書の売れゆきがある」とあります*2。ここには、私より一回り年上、一九五〇年代に戦後の民主化運動に携わった世代が社会主義ソビエトにたいして当時有していた印象が透けて見えます。(p.32)