会田大輔『南北朝時代――五胡十六国から隋の統一まで』*1を数日前に読了した。
「はしがき」から少し抜き出してみる。
はしがき――新たな中華世界の誕生
序章 西晋の崩壊と代の興亡――五胡諸政権
第1章 北魏の華北支配――北朝I
第2章 新たな「伝統」を創った宋――南朝I
第3章 孝文帝の中国化政策の光と影――北朝II
第4章 北魏と西魏の死闘――北朝III
第5章 皇帝菩薩衍と波乱の男侯景――南朝II
第6章 もう一つの三国時代(北斉・北周・陳)――北朝IV・南朝III
終章 南北朝時代のダイナミズム
あとがき
参考文献
主要人物紹介
年表
「北魏が華北統一を事実上果たした四三九年から、隋が中華を再統一する五八九年までを指す」(pp.i-ii)「南北朝時代」;
本書にひとつ不満を言うとすれば、エコロジー/エコノミーの記述が薄いということだろうか。遊牧民/漢人の対立には遊牧と定住農耕という生態学的/経済学的条件がかんけいしていだろうか。生態学的条件が変われば、遊牧民の生活や文化も変容を余儀なくされるのでは? また、北朝と南朝の対立には麦と稲の対立は関係していないのか、など。
(前略)南北朝時代は遊牧民と漢人の衝突・融合を経て、新たな制度・社会・文化が生み出された時代として位置づけられる。北朝では、もともと遊牧的制度が施行されていたが、五世紀末の北魏の孝文帝期にいわゆる中国化政策が断行された。ただし、遊牧民が一方的に中国化したわけではなく、このときすでに漢人と遊牧民の文化は融合しつつあった。日常生活を例にとると、鮮卑服が流行して中国的服飾に影響を与えたほか、食生活でも遊牧民由来の羊料理や乳製品などが普及した。女性の行動の活発化も遊牧民の影響と指摘されている。
他方、南朝は、漢文化をそのまま継承したとこれまで考えられてきた。しかし、実際には西晋崩壊後の戦乱で多くの文化が失われたため、南朝において国家儀礼やその際に用いる音楽などが「伝統」文化として創出されている。(pp.iii-iv)
高校世界史と拙著『南北朝時代』6
— 会田 大輔(Aida Daisuke)研究成果発信用 (@aidakenkyuseika) 2021年12月26日
一部の教科書では代・北魏から隋・唐を「拓跋国家」と呼んでいます。しかし、拙著『南北朝時代』では、南朝が北朝隋唐に与えた影響の大きさや孝文帝の中国化政策後の制度が隋唐の国制の基本になっていることなどを踏まえ、「拓跋国家」説に慎重な立場を示しました。
なお、かつて「拓跋国家」説の定義を確認した上で、北魏前期の内朝官と北周の侍衛を比較し、北魏から隋唐まで遊牧由来の官制が存在するといっても、その内実は大きく変容していることを指摘しました。よければご参照下さい。
— 会田 大輔(Aida Daisuke)研究成果発信用 (@aidakenkyuseika) 2021年12月26日
「北周侍衞考」(『東洋史研究』 74-2,2015年)https://t.co/CUZkdJI3LI
拙著『南北朝時代』(中公新書)で、なぜ皇帝の末路(約6割が横死)を繰り返し書いたのか。それはついつい私が胡漢融合・「伝統」の創造・様々な模索といった南北朝時代の肯定的側面を強調しすぎそうになるためです。しかし過酷な時代だったことも忘れてはいけません。まさに混沌と模索の時代です。
— 会田 大輔(Aida Daisuke)研究成果発信用 (@aidakenkyuseika) 2022年1月21日