「連赤」に拘って

宮畑譲「「もう1本撮って死ぬ」40年も沈黙続ける「伝説の映画監督」長谷川和彦が激白」https://www.tokyo-np.co.jp/article/152936


映画作家長谷川和彦*1は『太陽を盗んだ男』を撮って以来、40年以上新作を撮っていない。それは何故か?


一番大きいのは、連合赤軍にこだわったことだな。前後編に分けて3時間ぐらいの台本ができていた。ロケに使おうと考えた実際の浅間山荘が5500万円で売りに出ていて、3500万円まで値切った。あと500万の手付金を打てば、使えるところまで交渉したんだが。

 手付金を払うのを、俺がビビったんだ。「連合赤軍」をゴーすれば無理やりにでも俺は映画を完成させただろう。しかし、結果的に会社をつぶすことになりかねない。「ディレカン」は最年長の俺が「言い出しっぺ」で、「まず若い監督から全員撮れ」と言っている間に会社がつぶれてしまった。3人きょうだいの末っ子の俺が、慣れない長男役をやったんだなあ。撮らないやつがいる間に俺がつぶすわけにはいかんと。結果、俺以外の監督は全員、新作映画を撮った。その中にはディレカンがなきゃ、できなかった映画もあるんだ。脚本を一般公募した「台風クラブ*2相米慎二監督)とかな。
「胎内被爆者」であること;

母親が妊娠5カ月の時だ。当時、広島の郊外に住んでいたが、そこに被爆した母親の弟が血だらけで逃げ込んできた。この叔父さんは陸軍少尉。軍帽も軍刀もなくて、母親は「このままでは弟が逃亡兵扱いされてしまう」と広島市内の師団本部へ報告に出かけた。結果、叔父さんは1週間後に死んでしまうのだが。
 原爆が投下された直後の広島市内を丸2日間歩き回った母親と5カ月の胎児だった俺は、完全に被爆してしまった。それで小学校に上がる前から、原爆傷害調査委員会(ABCC)という、米国が被爆のデータを取るためにつくった施設に連れて行かれた。治療する病院ではなく、あくまでデータ収集のために。でもコーラを初めて飲んだのもこの施設だった。
 あと、小学校3年生の時だったか、家へ帰って夕刊を探すとない。結局、押し入れの中に隠すように置いてあった。俺と同じような胎内被爆児が白血病で死んだと書かれた新聞でね。「和彦に読ませると気にするから」と隠したらしいが、よけい気になるよな。その時、「俺は死ぬんだ」と確信してしまった。10歳になるかならないかのガキが、「死ぬ」という大ニュースをぶつけられたわけだ。

10代は20歳まで生きないと思っていた。20代は30歳まで無理だろうと。30歳でデビュー作を撮ったのは、急がないと死んじゃうというのもあった。33歳までに2作撮って、40歳になって、まだ死なない。けんかっ早かったり、態度が悪いと言われたりしたが、「俺には時間がねえ。死ぬ前に撮らせろ」と生き急いでいた。初めから75歳まで生きると分かっていたら、さすがに生き方違ったと思うよ。